間章 スリーミニッツバスターズ
「あ、のばら」
「げっ、高橋!」
会って早々随分な挨拶だとは思うけれど、相手が相手だから仕方がない。
一月十七日日曜日、午後五時半。今日の天気は曇りで、冬の早足の太陽は空を赤く染めることもなく山の向こうへ沈んでいった。近所の文房具屋さんでシャープペンシルの芯とノートを買った帰り道、吹き抜ける風は冷たい。
そんなどんよりした黄昏の空を背景に、静かな休日の住宅街の道に佇む高橋は、じゃらじゃらした装飾がいっぱいついた黒いマントを風に靡かせていた。薄暗くて顔が見づらいけれど、どうせいつもどおり真顔なんだろう。
「ちょっと高橋、そんな堂々とエクソシストの服を着てあたしの近所を歩かないでくれる!? 何なの、また魔物でも逃がしたの」
「のばら」
ずい、と高橋が一歩あたしに近づいた。あたしよりも背が高い高橋の一歩は、思ったよりも大きくて、相変わらずの真顔が目の前にくる。
「な、何」
「実は俺は今、とても急いでいるんだ」
高橋はそう言った。
口調もいつも通り淡々としているので、急いでいるということがちっとも伝わってこないんだけど、ひとまずあたしは頷く。
「……へ、へえ。どうして?」
「昨日、のばらについてきてもらい、俺は家具を買った」
「……うん、そうだったね」
「そして、俺が入居しているアパートへ配達してもらうよう依頼した。これがその依頼票だ」
マントの中から薄っぺらい紙を取り出す。赤紫っぽいインクで印刷されたその紙は、確かに宅配便の控え伝票だ。それが二枚。一枚目の品名は家電・大型家具(冷蔵庫、掃除機、電子レンジ、洗濯機、パイプベッド)、希望のお届け時間帯は午前中。二枚目の品名は家具(マットレス、ラグ、ローテーブル、カラーボックス)・雑貨類、希望のお届け時間帯は十八時から二十時。
「一気に届いても配置するのが大変だからな。少し時間をずらして配達してもらうことにしたんだ。エクソシストにはスケジュール管理も必要だ」
「それエクソシスト関係ある!? そのスケジュール管理にエクソシストの要素あるっけ!?」
「もちろんだ。日々の生活における心構えがいざというときにあらわれるからな」
「そのいざというときに魔物を逃がしまくってるからなお前ェェエエ!?」
「確かにそれは否定できない。いっそう気を引き締めてスケジュール管理にあたらないと。そういうわけで、俺は十八時から二十時の間、アパートにいなくてはいけない。しかし、いくら俺が綿密に管理していたとしても、時として予想だにせぬ出来事が食い込むことがある」
「……まさか」
「そう」
嫌な予感しかせず、恐る恐る顔を見上げるあたしに向かって、高橋は一つ頷いた。
「魔物が逃げた」
「またか高橋ィィィィィッ!!」
いざというときに魔物が逃げるのでスケジュール管理をしようとしたら、それが魔物に邪魔される、恐ろしい負のループが発生してる!!
「まあそういうわけで」
高橋は仕切りなおすかのように咳払いした。
「タイムリミットの十八時は、しかし魔物の回収を終える時間ではない。荷物を受け取るためにアパートで待機を開始する時間だ。まず、この付近から俺が住むアパートまでは徒歩十分ほどかかる。また、今回は捕獲した魔物を本部へ連れて行く必要がある。そんな時間はさすがにないので、近隣地区を担当するエクソシストに依頼しようと思っているが、この引渡しのためには二分必要だし、そのエクソシストにこれから電話で連絡するのに五分。魔物が再度逃げないように拘束を厳重にするのに三分。あわせて二十分だ。現在時刻は午後五時三十三分。すなわち、残り七分で魔物を捕獲しなくてはいけない」
「……高橋、アパートに戻ったあと、着替えてね? 頼むからその格好のまま荷物を受け取るのはやめてね!?」
「そうすると、着替えるのに十五分はかかるから、……マイナス八分なのだが、どうしようか、神の使い」
「着替えるのに時間かかりすぎじゃない!? どうしようかって何、今度は神の使いに何を期待してるの!?」
「時間を巻き戻したりとか?」
「そんな軽い調子で期待しないでくれる!? 世の中の巫女さん絶対そんなことできないしそもそもあたしは神の使いじゃないしぃぃぃぃッ!! 全部着替えるのに時間がかかるなら、中に着てるシャツとズボンは普通っぽいから、マントだけ脱いで!!」
「なるほど、マントなら八分あれば脱げるな」
「着替え時間のうちマントが占める割合、多くない!?」
確かにいろんな装飾品がついてて、脱いだり着たりが面倒そうではあるけれど、普段から魔物退治時に着ている衣装がそんなに大変なものだったとは。エクソシスト本部に、衣装を簡単にしてもらうようにお願いしたほうがいいんじゃないだろうか。
「しかしこれでもマイナス一分。さらに、今話している間に一分経ってしまった。……やむを得ない。のばら」
高橋が再びマントの中を漁る。出てきたのは黒い二つ折りの携帯電話。片手で開き、かちかちといくつかボタンを押した後、それをぽいっ、とあたしに投げてよこす。
「うえっ!?」
いきなり投げられたので手につかず、わたわたと何度かお手玉しかけたけれど、なんとか受け取る。
「近隣地区担当のエクソシストに電話をかけてあるから、魔物の回収をするよう言ってくれ」
「はあ!? え!? 電話!? かけてある!?」
「これで五分稼げる。残りはプラス三分」
マントを翻し、携帯電話を手に慌てるあたしに背を向けて。
「三分で魔物を捕獲する」
たん、と軽く高橋はアスファルトの地面を蹴った。その身体はあっという間に周りの屋根よりも高い位置まで跳び上がる。電柱のてっぺんを踏んで跳び、隣の電柱、二階の屋根、街灯、と次々と渡っていく。
って、電話、電話!! 有無を言わさず渡された携帯電話の画面を見れば、どこかの番号へ電話がかけられている! 誰に!? 魔物の回収をするよう言わなきゃいけないの!? あたしが!?
無情にも画面の表示が変わり、「通話中」の文字が表示される。ひい、電話がつながってしまった!
「も、もしっ、もしもしぃっ!?」
完全に声が裏返った。
「えっと、えーっと、あ、そう、高橋ですッ、あ、いやあたしは高橋じゃなくて代わりにかけてるんですけど!!」
もう自分でも何を言っているかよく分からない。当然、電話の向こうからは、一瞬の沈黙の後に戸惑った声が聞こえてくる。
『……梨川駅前まるまるうどんですが、ええと……?』
ただ、そのどこか柔らかな困り声と、うどんというキーワードに、あたしは聞き覚えがあった。ぴんっ、と頭がその名前をはじき出す。
「ジルさん!?」
『いかにもジル=ノウェアだけど、……あ、ああー、のばらさん!?』
「そうです、原のばらで、ッうわ、わっ!」
安心したところに、すぐ真上でどんがらがっしゃんと派手に何かが崩れる音がした。見上げると、横の家の二階の屋根瓦が一、二枚崩れて落ちてくるところだった。思わず身構えるも、少し離れた地面に落ちて粉々に割れた。もう一度上を見れば、こちらをちらっと振り返って片手を挙げつつ遠ざかっていく高橋の背中と、そして高橋が追う黒い四足のシルエットが見えた。あ、あいつ走り回っているうちに人の家の屋根を壊しやがった……。
『のばらさん!? どうかした?』
電話越しのジルさんの優しい言葉が身にしみる。
「大丈夫です、高橋が逃げた魔物を追ってるんですけど、間違って壊しちゃった屋根瓦が近くに降ってきて」
『後で殴っておくね!』
「ええ!?」
『冗談だよ、冗談じゃないけど。それでのばらさん、この電話は?』
「あ、ああ、そうでした! 実は」
あたしがこれまでの経緯をなんとかかいつまんで伝えると、「なるほど」とジルさんは言った。
『つまり二発殴る案件ということだね!』
「ええ!?」
『冗談だよ、冗談じゃないけど。仕方がない、今から行くよ、』
そこで一度ジルさんは言葉を切って、沈黙が五秒、そして、
「来たよー」
「うわあああ!」
声が耳元と、そして背後から同時に聞こえて、あたしは大声を上げて振り返った。耳から携帯電話を遠ざけて、きゅうっと目を瞑るジルさんがそこにいた。あたしの大声が耳を直撃してしまったらしい。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、驚かせた僕が悪かったです……」
「まさかこんなに早く来るとは思ってなくて……どうやって来たんですか?」
「飛んできたよー、カラスだからね」
「飛ぶのってこんなに早いですっけ!?」
「……のばらさん鋭いね……そう、まあちょっと、空間をいじって」
「『ちょっと空間をいじって』!?」
「おっと、これ以上は」
ウィンクして唇に人差し指を当てる。
「魔物といえど、エクソシストとして過ごしているからね、あんまり大きな声では言えないんだよね。社会で生きるって面倒だね」
ぱちん、と小気味いい音を立てて、ジルさんの手にあった折り畳み式の携帯電話が閉じられた。
「それで、これから少なくとも二回殴られる予定のエクソシストは、二回で済みそうなのかな?」
左手にはめた腕時計を見れば、高橋が魔物退治を始めてから一分と二十秒ほど過ぎたところだった。横の家の瓦屋根を壊してから、姿が見えないけど、大丈夫かな。
そのとき、背筋を凍えるような震えが駆け上った。
「ひッ……!?」
何度も身に覚えのあるこの悪寒は、間違いなく、魔物の残り風だ。近くに魔物がいる!
慌てて辺りを確認しようとしたあたしの耳に、聞きなれた声が届く。
「――最終手段」
見上げた先、電柱を蹴って飛び降りてきた高橋が、右手を大きく振りかぶる。その手には煌々と輝く白い光。
「発」
「ちょっと待ってノディイイイイイッ!!」
遮ったのは、ジルさんの大慌ての大声だ。
「僕消える!! 僕も消えちゃうからそれ!!」
「あ、本当だ」
そういえばそうだった、程度の感じでそう言い、高橋が右手を軽く振った。白い光が霧散する。とん、と地面を蹴り、再び魔物を追って走り出した。
「あ、危な、危なかった……」
胸のあたりを掴み、弾む息を抑えながら、最終手段の巻き添えを食らって危うく「裏」に送り返されるところだったジル(魔物)さんが、切れ切れに言う。
「三発殴らなきゃ……」
……高橋の同僚をやるのは大変そうだ。
「いやまあ、ノディ程度に易々とやられるつもりはないけど……それにしてもあいつ、時間、大丈夫かな」
再び時計に目をやれば、さっきから二十秒ほど経過していた。これで一分四十秒、残りは一分二十秒、半分を切っている!
高橋は家の塀から再びどこかのお宅の屋根へと駆け登る。けれどその足が止まった。辺りに魔物の姿が見えない。
「ノディが最終手段を発動させようとしたのを見て、まずいと思って姿を消してしまったようだね」
小さな声でジルさんが呟く。
追うべき相手を見失い、高橋は動けない。こうしている間にも時間は刻々と過ぎていく。小さな腕時計の、聞こえないはずの秒針の音が聞こえてくるみたいだ。五秒……十秒……。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。魔物は壁や家や、こちらの世界のあらゆるものをすり抜けてしまうから、道なんて関係ないし、どこにいるか見当もつかない。だからって、当たるのを祈りながら最終手段を適当にぶっ放すわけにもいかない、ここには魔物のジルさんがいるんだから。
どうにか、せめて魔物のいる方向だけでも分かる手段はないの!?
「ジルさん」
「しっ」
呼びかけると、短く鋭い抑えた声で、ジルさんが静かにと言った。えっ、と思わず聞き返しかけた口を押さえる。ジルさんは目線をこちらに向けず、ゆっくりと目だけを動かしていた。息遣いすら聞こえない。僅かなものも見逃さず、聞き逃さないように。
見れば、屋根の上に立つ高橋も、北風に髪を、マントを煽られながら微動だにしない。碧の目を伏せて、静かに、静かに、待っている。
そうだ。魔物はこちらの世界のあらゆるものをすり抜けてしまうけれど、それはこちらに来たばかりの魔物の話。こちらの世界歴二年の明日香ちゃんやジルさんまでとはいかずとも、少なくとも一度捕まってから逃げ出す程度の間こちらにいる魔物は、僅かでもこちらの世界になじみつつあるはずだ。だから、すり抜けるはずの物に当たって、もしかしたら何かが揺れるかもしれない、何か音が鳴るかもしれない。
だけど、そんな微かな変化を、エクソシストだからって感じ取れるんだろうか。冬の冷たい風は強く吹いて、木々を揺らし、音を立てている。残り……四十秒……。
高橋が右手を胸のあたりに上げた。その手に再び白い光が灯る。まさか、一か八か最終手段を使う気!?
けれどその手は、風にはためく黒いマントの中に仕舞われた。そのまま、右手にぐるぐるとマントを巻き付ける。何重にも覆われて、眩い光は、ほぼ見えなくなった。
え、何してるの……?
困惑するあたしを他所に、ジルさんは変わらず真剣な表情で集中している。
高橋の唇が動く。
――最終手段、発動。
分厚く黒いマントの下から発された光は、淡く、淡く、辺りに広がった。柔らかな波動が身体を通っていく。残り、三十秒。ジルさんが小さな、小さな声で教えてくれる。
「……今放たれた最終手段は、『裏』とこちらの境界を歪ますほどの威力はない。けれど『こちら』側の光に満たされて、この辺りはいつもよりも『こちら』側に傾いている。それは、この近くにいるはずの魔物も同じ。こちら側に傾く……つまり、通常よりも急速に、こちら側に馴染んで、形を持ち始めているということ。少なくとも、そうだね、表面くらいは」
残り二十秒。高橋の右手から外されたマントがふわりと風に靡き、そして、降りた。
風が、止んだ。
張り詰めたこの場に訪れた、奇跡のような静寂。
それを破る、……鈍く重い衝突音!!
「そこ!」
「そこだ!」
「そこか」
あたしの、ジルさんの、高橋の、声が重なる。三人が指差す、道の先に、ブロック塀にでもぶつかったのだろう、うずくまる魔物の姿。
高橋が駆ける。
残り十秒。九。八。急に物にぶつかって混乱した様子だった魔物が、向かってくる高橋に気付いて立ち上がろうとする。七。だけど、もう逃さない。右手をマントで、今度は一重だけ覆う。六。真っ直ぐに走る。五。四。真っ直ぐに!
三。もはやお馴染みの淡々とした声が、ここまで届く。
「最終手段」
二。輝きを増す、その光が。
一。
「――発動」
辺りを、再び淡く包んだ。
アスファルトの上で丸くなっている、小さな馬の姿をした魔物の周りを高橋が指でなぞると、その軌跡が白く光った。一周、二周と魔物を囲うように線を引いていく。魔物の捕獲には成功したから、おそらくこれが次の手順、「魔物が再度逃げないように拘束を厳重にする」だろう。これも制限時間は三分だけど、まあ順調に進んでいるみたいだ。
ちなみに、先ほどの魔物捕獲中に崩れたどこかのお宅の屋根瓦については、高橋がマントの中から取り出したトライアングルこと最終兵器ミョルニルによって、一瞬で手軽に修復された。一旦エクソシスト本部に預けられた最終兵器だけど、今は高橋が使っているとのこと。まあ、いつもこんな調子でいろんなものを壊しているようなら、最終兵器の出番も多いだろうしね……。
「高橋の『最終手段』って、布で覆うと威力が低くなるんだね……」
「このマントには、力を遮る効果があるからな」
白い光だということもあって、なんだか遮光カーテンみたいだ……。
「どうして威力を低くしたの? 今までみたいに全力で最終手段を使えばこの魔物は『裏』に帰るし、今やってる拘束とか、この後本部に連れていく手順もいらなくなるんじゃない?」
高橋はよく魔物を運んでその途中で逃がしてしまっているけれど、そもそもどうして運んでいるんだろう、と今更ながら思いつつ尋ねると、作業が終わったらしい高橋が立ち上がりながら答えた。
「それもそうなのだが、管理の都合上、エクソシストが各自で魔物を返すことは、緊急時でなければなるべく避けることになっているからな。一旦本部へ引き渡して、本部でまとめて『裏』へ返すんだ。あとは、珍しい魔物が見つかったりすると、これも研究のために本部へ引き渡す必要がある」
緊急時と言いつつ、結構高橋は自分で魔物を返してしまっていると思うんだけど、まあそこのあたりは「なるべく」という文言に吸収されているんだろう。
さて、と言い。白い光に囲まれて、目を閉じて大人しくしている魔物から目を離し、高橋がジルさんを見た。
「よし、予定通り三分で完了した。ジル、魔物の運搬を頼む」
「三分きっかりで終わらせたね……あと十秒でも時間があれば、三発殴ったのに」
「悪いな、その時間はとっていなかった」
「はいはい。……ええと」
ジルさんがしゃがみこみ、魔物の様子を覗う。
「馬の魔物、キタルファか。まだ幼くて小さいね。大人しくしているし、これなら大丈夫だと思うけれど、ノディ、念のためもう一重、拘束をしておいてくれない? 万が一暴れると危ない」
「分かった」
「分かってると思うけど、拘束がぶれないように、気を付けてね?」
「分かった」
高橋が再び地面に手をつく。長い指が三周目を描き始める。魔物を囲む白い光が揺れる。
その時。
「あ」
高橋の短い声と同時。魔物が、突然立ち上がり、揺らぐ光に突撃した!
その部分は見た目通り脆くなっていたんだろう、魔物は拘束を突破し、あっという間に、再び黄昏の冬の街へと走り去っていく。
……って、ちょっとちょっとちょっとぉぉおおお!?
あれだけ苦労して三分間で捕まえた魔物が、逃げちゃったんですけど!?
「何やってんの高橋ィィィイイイッ!?」
「ごめんだっぴょん……」
「語尾だけ消え入りそうに言ってもだめェェェッ!! 表情も声色もいつものままだから!!」
「ちょっとノディ!? 気を付けてって言ったよね!? 言ったよね僕!?」
「気を付けたが」
「堂々と言うのは結果を伴ってからにしてくれる!?」
「仕方がない」
本当に仕方がないよ!!
高橋がマントの中から、伝票の控えを取り出した。それをあたしに向かって、ぴっ、と投げる。軽くて薄い紙はひらひらと風に吹かれながら降りてきて、あたしは慌ててそれを掴もうとするも、なかなかうまくいかない。
「緊急事態だ。代わりに荷物を受け取ってくれ、神の使い」
「は!? え、ちょっと高橋ぃぃぃっ!?」
やっと伝票を手にした時には、高橋はすでにあたしに背を向けていた。ジルさんが片手で頭を抱えながら、もう片手であたしに謝るポーズ。
「……ごめんのばらさん、すぐ片づけて、四発殴って、向かうから……」
「に、荷物の受け取りってどうすれば……!」
「宅配業者さんが玄関まで荷物を持ってきてくれるから、印鑑を押して荷物を受け取ればいいよ、のばらさん」
「印鑑ってどこにあるの!?」
「そこは神通力を使えばいいのではないだろうか?」
「いいのではないだろうか? じゃねえよ! なんでそんなカジュアルな感じで神通力を使わせようとするんだよ、そもそも使えないし巫女じゃないし――!!」
喚くあたしに、高橋は今度は鍵を投げて寄越した。
「大丈夫だ、サインでもいい」
そして伝えることは伝えた、渡すものは渡した、とでも言うかのように、魔物を追って走り出した。
後に残されたのは、伝票の控えと鍵、を握りしめるあたし。
……宅配便が届く、十八時まで、あと、……十分。
しばし呆然としていたあたしは、けれど高橋の住むアパートがここから徒歩十分だったことを思い出し、猛然と走り出した。四発目はあたしが殴る、その思いを胸に。
伝票の控えに書かれた住所だけではすぐに目的地にたどり着くことはできず、辺りをうろうろと走り回って。やっと見つけたアパート「ブラン守本」の、よりにもよって四階に住んでやがったため、階段を駆け登って。
十八時十分。まさに408号室のチャイムを鳴らそうとしていた宅配業者のお兄さんの前に、あたしはやっと辿りついた。息を切らし、咳き込みながら現れた中学生に、さすがにお兄さんは驚いていたけれど、あたしが鍵を開けて部屋の中に入ったうえで、荷物を受け取ることを言うと、とりあえず納得して荷物を渡してくれた。マットレスやらカラーボックス、さらには雑貨類が詰め込まれた段ボールはとにかく大きい。続いて伝票を渡されたので、高橋、とサインを書いておいた。伝票の住所や名前欄の妙に綺麗な字に比べて、あたしのは丸い癖字だけど、……まあいいよね。
心配していた割に、荷物の受け渡しはあっさりと終わった。荷物を玄関に置きっぱなしにしておくのもどうかと思うし、ひとまず部屋の中に入れておこうかな。それには、部屋の中に置く場所があるかどうか確認しないと。
狭い玄関から廊下が延びている。廊下の右側には扉が二つ、お風呂とトイレかな。左側には小さなキッチン。午前中に配達される予定になっていた、一人暮らしサイズの冷蔵庫と電子レンジがすでに置かれている。突き当りには扉があって、その向こうにはフローリング敷きの部屋があった。これも一枚目の伝票に書かれていた、パイプベッドとかが置かれている。ただ、まだ「置いただけ」という感じ。パイプベッドは組み立ててあるけどマットレスや布団がなくて枠組みだけだし、掃除機はまだ箱に入っている。引っ越ししたての、まだ生活感のない部屋だ。端っこの方に、畳まれた段ボールや、高橋の私物らしいカバンやキャリーケースが寄せて置かれていた。
物が少ないので、十分にスペースはありそうだ。部屋の扉を開けたままにして、あたしは玄関に戻る。配達された荷物を引きずって、押して、また引きずって、なんとか部屋へと運んだ。
さて。これで荷物は受け取ったわけだけれど、この後あたしは高橋に鍵を返さなくちゃいけない。せっかく部屋に入ったので、遠慮なく部屋の中で高橋とジルさんを待たせてもらおう。
パイプベッドに腰かける。テレビでもあればよかったんだけど、残念ながら見当たらないので、手持ち無沙汰のあたしは部屋を見渡す。
部屋の端っこに置かれた、仕事用のような黒いカバンは横に倒れていて、そこから零れたのだろう、いくつか小さな物が転がっている。小さな円筒型のものがある、あれが印鑑かな。本当に印鑑持ってたんだ……。あとは書類とか、家具を買った時にも見た黒い手帳とか、同じくらいの大きさのワイン色の薄い手帳とか。高橋、二冊も手帳使ってるのかな。
そこだけ散らかっているのが気になって、あたしはカバンに近づいた。印鑑や書類をカバンの中に戻していく。そして、黒とワイン色の手帳を手に取ったところで、あたしはなんとなくそれを見た。
近くで見ると、ワイン色の薄い手帳は、金色で装飾とかアルファベットが書かれていて、手帳というより……そう、パスポートだ。下の方にはPASSPORTって書かれてるし。でも、上の方に書かれてるアルファベットはよく分からない。なんか、普通のアルファベットとは違って、文字の上とか下に飾りのような点がついてる。英語じゃないのかな。
間から写真が半分くらいはみ出していることに気付いた。薄い茶色の髪色をした外国人が何人か映っていた。椅子に座っている女の子と、その後ろで立つ少し年配の男性、どちらも笑ってこちらを見ている。右側にも同じように映っているような感じがする。家族写真かな? だけど、あれ、パスポートに挟まってる左下の方が大きく破れているような……。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。弾かれたみたいに身体が起きた。勢いよくパスポートをカバンに突っ込む。
「おまたせ、のばらさん!」
部屋の扉が開き、明るい声とともにジルさんが現れた。その後ろから高橋が、後頭部を掻きながら、っていうか押さえながら部屋に入ってきた。
「お、おかえりなさい!」
「ただいまー、って僕の部屋じゃないけど」
高橋はあたしを見て、それからあたしが運び入れた荷物を見た。
「無事に受けとってくれたのか。助かった。ありがとう、さすが神の」
「使いに頼むことじゃないし、そもそも神の使いじゃねぇっつってんだろぉぉぉぉッ!!」
時間を巻き戻させようとしたり、一方で荷物を受け取らせようとしたり、高橋の中で結局、巫女はどういう存在なんだよ!! 便利屋か! 本物の巫女さんに謝れ! 便利屋だとしても雑すぎるし!
とにもかくにも、こうして、無事に高橋の部屋には家具が設置されたのだった。