第三章 ファンシー・フライヤーズ・フォール
2.あたしと魔界と逃亡者−3
「そうね」
伊吹さんがうどん屋の扉を開け、店内に入る。あたしとジルさんもそれに続いた。
キッチンの天井の穴に近づく。人ひとりが通れるほどの大きさだったはずの穴は今、腕がぎりぎり入るくらいにまで小さくなっていた。
伊吹さんがジルさんに目配せし、穴に近づいた。細く長い指で穴の中心を指す。その先に白い光が宿ると同時に、穴が波打った。伊吹さんが小さく呻く、けれど指は、光はぶれない。照らされた中心から広がる波に押されるように、穴はどくん、どくんと大きくなっていく。
「完了よ」
伊吹さんが手を下ろしたときには、穴は、あたしはもちろん、ジルさんやおじさんも通れるほどにまで広がっていた。
「ジル、先に通って」
「じゃあ、お先に戻るよ」
ジルさんはおじさんを抱え直し、キッチンに置いてあった椅子によじ登った。片手で穴の縁を掴んで椅子の上で立ち上がると、背の高いジルさんの頭、肩、胸くらいまでが天井の穴に入った。腕に力を入れて上に伸びあがると、そのままジルさんの身体はすとんと上に吸い込まれるように消えた。
「私が穴を留めておくから、原さんも行って」
「う、うん、分かった」
「穴の中に身体を入れれば、上下が反転して自然にあちらの世界へ落ちるから。着地には気を付けて」
ジルさんを見習って、あたしも椅子の上に立つ。身長が足りなくて、頭がぎりぎり届くか届かないかくらいだ。両手を穴に突っ込む。確かに縁のところは形を持っていて、掴めそうだ。このままジャンプすればいけるかな。
「よいしょっと」
勢いをつけて飛び上がる。頭を突っ込んだ穴の中は真っ暗だ。
ぐるん、と突然身体が逆さまになる感覚。上が下に。頭が……下!
「え、え、……うわあああ!?」
あわてて手を伸ばすも、あたしは背中から硬い床に落ちた。
「痛っ……あ痛たたたたた」
衝撃に浮かんだ涙を拭って辺りを見てみれば、そこはさっきと変わらない、ジルさんのお店のキッチンの中だった。落ちてきたあたしの頭上には黒い穴が開いていて、ちょうど鉄棒で前回りをするようにくるりと伊吹さんが飛び降りてくるところだった。
「大丈夫? 原さん」
「なんとかぁ……」
かっこよく着地した伊吹さんに声をかけられ、もう一度涙を拭いて、背中を押さえて立ち上がる。
「無事、戻ってきたわね」
伊吹さんが安堵のため息をついた。
そう、確かにさっきと同じ、ジルさんのお店のキッチンにいるんだけど、……ここは「裏」じゃない。だって、外からにぎやかな声が、音が聞こえる。人の気配がする。
戻ってきた。あたしたちの世界に!
「よかったあ……!!」
はあああ、とほっとして大きく息を吐く。あたしを見て小さく微笑んでから、伊吹さんは表情を引き締め、キッチンの外へ向かう。
客席の奥に、靴を脱いで上がれる畳敷きの座敷席があって、ジルさんはそこにおじさんを横たえているところだった。
「ああ、二人とも、大丈夫かい」
「問題ないわ」
「この人はまだまだ目覚めないだろうし、事態が片付くまではここに寝かせておくよ。お店も臨時休業にしたからね」
そう言うとジルさんはエプロンを外した。
「さて。大丈夫だと自分で言ったものの、正直なところ半信半疑な、あの二人の魔物退治の様子でも見に行ってきますかー」
そうだ、外では今も、高橋と瑞穂さんがこちらの世界へ迷い込んだ魔物を捕まえようとしているんだった。
あたしは……、でも、行くわけにはいかないから、じゃあここでおじさんを見張っていよう。もし目覚めてしまって、そのときにうどん屋の座敷席に寝かされていたらびっくりするもんね。
「のばらちゃんは、念のため、ここに残っていてもらっていいかい?」
ジルさんの言葉は考えていた通りのもので、あたしは素直に頷いた。
「花折ちゃんも」
だからこそ、それに続けられた言葉に驚いて、思わずジルさんをまじまじと見てしまった。
えっ、伊吹さんも?
そりゃあ、あたし一人よりも、伊吹さんがいてくれた方が頼もしいけれど。でも伊吹さんはエクソシストだから、魔物退治の増援に向かうものだとばかりだと思っていた。魔物が何匹か同時に現れたってことだったけど、ジルさんだけで大丈夫なのかな? 高橋と瑞穂さんがすんなりと魔物退治を進めているってことなのかな。
「分かったわ」
伊吹さんが頷いたのを見て、ジルさんは颯爽とうどん屋を飛び出していった。
後には伊吹さんとあたし、そして寝ているおじさんが残された。伊吹さんは小さくため息をつき、窓際の椅子に座った。頬杖をついて、しばらく窓を塞いで柔らかく光る障子を眺めていたけれど、ふとあたしの方を見た。
「……そんなところで突っ立っていないで、座ったら?」
そう言われて、自分が座敷席のそばで伊吹さんを見ながらぼんやりと立っていたことに気付いた。
「う、うん」
おじさんはすやすやと眠っていて起きる気配もないので、あたしは伊吹さんの向かいの席に座った。机の端に置いてあった空のコップと水差しを引き寄せ、伊吹さんが水をついでくれた。あたしたちがうどんを食べてから、どれくらいの時間が経ってるんだろう。水差しには水滴が無数についていた。なんとなく、伊吹さんと何を話していいか分からなくて、あたしは水滴をぼんやりと見ていた。障子越しに差し込む冬の斜めの光は弱くて、外から伝わる冷たい空気と混ざって漂っていた。
「……高橋たち、大丈夫かな?」
水滴が三つほど、つうと流れたころ、あたしは伊吹さんに尋ねた。相変わらず頬杖をついて障子を眺めていた伊吹さんは、視線を一度あたしに寄越し、またもとに戻した。
「大丈夫でしょう。私の姉がいるもの」
「瑞穂さんが? ……ってごめん、ええと……」
思わず聞き返してしまって慌てると、伊吹さんがふふっと笑った。
「普段はどうしようもなくうっかりしてるけど、私の姉はすごいのよ」
「へえ……」
そういう伊吹さんの顔は、声は、とても穏やかで。あたしは頷きながら相槌を打った。
「まあ、そうは言っても、ただ待つってのも落ち着かないわね」
伊吹さんは、さっきまで自分が眺めていた障子に手を伸ばした。
「ここからなら見えるかしら。……わ、眩しい」
障子が開かれ、光が斜めから差し込んだ。冬の日とはいえ十分に強い光に、思わず目を瞑る。
徐々に目を開けると、柔らかな逆光の中に連なる家々のシルエットが見えた。
「あそこ」
伊吹さんが指差す。一軒の家の青い瓦屋根の上に、人間のかたちの影が二つ。少し離れた電信柱の上にもう一つ。そして、彼らの視線の先には、二階建ての小さなアパートの上に佇む巨大な四本足の黒い獣の姿。どれくらい巨大かというと、家と同じくらい。家の上に家が乗ってるような感じだ。大きすぎてぴんとこないんだけど、多分あの形は、狼なんじゃないだろうか。
普通ならありえないそのシルエットたちは、頑張って探すまでもなく、すぐに見つかった。すなわち、とっても目立っている。
「ねえ伊吹さん、あんなに白昼堂々、屋根に登って魔物退治して大丈夫なの? 逮捕されない?」
「されないわよ、まず誰も気付かないもの」
「気付かないの?」
「『人避け』って言って、」
伊吹さんが人差し指を立てる。その先に小さな光が宿して、机をなぞる。伊吹さんの手元にあるコップを囲む円が描かれた。最後にとん、と円をつつくと、……あれ、コップが見えなくなった……!?
目を擦る。あ、よく見たら、コップはある。だけどなんだか輪郭が曖昧というか、ぼんやりとしているというか。コップがあると知らなければ見逃しそうだし、知っていても油断するとまた見失いそうだ。
「『こちら』側の力で囲むことで、外から中が見えづらくなるのよ。例えるなら……私たちは暗いところで物を見ることはできないけれど、さっき障子を開けた時のようにあまりに眩しい場合でも逆に見えないことってあるでしょう。それと同じ。見慣れていない人にとっては、『あちら』側の存在って見えないものだけど、逆に強すぎる『こちら』も見づらいものなのよ。それを利用して、ここの辺り一帯を囲うことで、一般人には見えづらくしているの。このうどん屋は『人避け』の範囲内だから、私たちには問題なく彼らの姿が見えるけれど」
「ってことは、うどん屋さんの辺りは今、他の人には全く見えてないってこと?」
「ついさっきまであったはずの建物やものが全く見えなくなってしまったら、不自然でしょう。あくまで『見えづらく』よ。意識的に見ようとしなければ見えない程度にするの」
「へええ。これは、瑞穂さんがやったの?」
なんとなく高橋にそういうことは出来なさそうな気がしなかったのでそういうと、伊吹さんは小さく首を振って「いいえ、私よ」と言った。
「そうなんだ、でもそんなのいつの間に……」
「原さんを助けに行く前」
伊吹さんはさらっと言ったけど、……おじさんと一緒に走り回っていて時間の感覚がはっきりしなかったとはいえ、あたしが穴に落ちてから、伊吹さんたちが助けにくるまでにはそれほど時間は経っていなかったはずだ。あの短い間に、伊吹さんはこれだけのことをやってたんだなあ。
だけど、逆に、やっぱりどうして、って思う。それだけすごいのに、伊吹さんはどうしてうどん屋さんであたしと一緒に留守番してるんだろう。
外では、三人がじりじりと狼の魔物との距離を縮めていた。囲んで追い込むように。魔物はぐっと体勢を低くして、威嚇しながら、だけど追い詰められて徐々に下がっていく。
あともう一歩も下がれば屋根から足が落ちる。と、その時、魔物が突如身を翻して逃げ出した!
突然の動きに、けれど三人は一拍の遅れもなく駆け出した。
高橋とジルさんが二手に分かれて追う。魔物の動きは素早い上にめちゃくちゃに駆け回っているように見えるけれど、はじめにいた辺りからそう遠くに行くわけではなくて、同じところをぐるぐる回っている。いや、回らされている。二人がたぶん、誘導してるんだ。
それでも振り切ろうとする魔物を見て、走りながら高橋の右手が動く。
最終手段、発動。
光が弾けて、魔物がぐらりとよろめく。けれどまだ走り出す。一度じゃだめみたいだ。だけどそれは想定内だったようで、動揺することなく再び二人は追い始める。追う。最終手段。追う。最終手段。追う。
高橋がジルさんに合図して、ジルさんが頷いた。弱った魔物を二人が導く。それでも咆哮し、魔物が突っ込む、その先には。
元いたアパートの屋上で、静かに、じっと、待っていた瑞穂さんが、すっと、右手を上げた。
迫る魔物。瑞穂さんはそのまま動かない。
もうぶつかる! と目を瞑りかけたときに、瑞穂さんが、掲げた右手を鋭く振り下ろした。
その瞬間。
無数の光の弾丸が魔物に放たれた。辺りが閃光で真っ白になるほどの数の弾が途切れることなく、魔物を貫き、包んでいく。
瑞穂さんが右手を、指揮者が演奏を止めるかのように振り払って、光はぴたりと止んだ。光の洪水の中から現れた魔物は、ふらりと崩れ、大人しく蹲った。
あまりにも鮮やかに、圧倒的に、一瞬で狼は仕留められた。
「……すごい……」
「ね、すごいでしょ、私の姉は」
あたしの呟きに、伊吹さんが再び同じことを言った。
その、「私の姉は」という言い方が、なんだか「私はそんなことない」って言っているかのようで。あたしは反射的に叫ぶように返していた。
「い、伊吹さんだって」
伊吹さんは上目遣いで覗うようにあたしを見て、また窓の外を見た。
「でも私はあそこにいないもの」
一瞬、外が光に包まれて、それが収まったとき、地面に落ちてわずかに見えていた狼の背中も見えなくなっていた。たぶん高橋が最終手段を使って、これで魔物は「裏」に帰ったんだろう。
「……私の姉はすごいのよ。ジルも言ってたでしょ、エクソシストの中でも力が強い、って。私はごくごく普通のエクソシストだから。もちろん普段は魔物退治をするけれど、姉がいれば、私は別に行く必要がないのよ。サポートが必要なら行くけれど、今回は同じく力が強いエクソシストと、魔物もいるから、私は行かなくていいの」
そこで一度伊吹さんは言葉を切って、窓から視線を外した。少し笑って、あたしの顔をちらっと見た。
「私、高いところが苦手なんだけど」
「う、うん」
「昔は苦手じゃなかったのよ。苦手になったのは三年くらい前、ちょうど原さんと同い年の頃かしらね。……私がエクソシストとして働き始めたのは、中学卒業と同時だった、だからその少し前ね。もうすぐ姉と同じエクソシストになるのに私はごくごく普通の力しかない、ってことにちょっと焦ってたのよ。それで、努力でなんとかできるかなって思って、まあ無茶なこともしてみたりして……高いところから誤って落ちて、それからね、高いところが苦手になったのは。他の苦手なものも、大体はその頃に、無茶して、失敗して、苦手になったものばかり。まったく、何をやってるんだか、って感じよね……」
いつも、(高いところにいるとき以外は)背筋を伸ばして凛と立っている伊吹さんが口にする……弱音は、強くて、脆く聞こえた。
ごく普通のエクソシスト、って。ごく普通の一般人であるあたしから見れば十分すごい人のように思えるのに。
「でも」
あたしはなんとか言葉を絞り出す。
「でも伊吹さんは、あたしを助けに『裏』に来てくれたり、魔物退治をしやすいように人避けをしたり……、高橋や瑞穂さんにはできないことをやってるよ。そうやってみんなを助けてるよ!」
「そうよ」
あたしの言葉に、伊吹さんはあっさりと頷いた。だけどその表情は、どこかまだ、心残りや悔しさを捨てきってはいないみたいだった。
「……そう思ってるわよ」
それでも伊吹さんは、あたしを真正面から見て言う。
「誰もがああやって華々しく世界を守っているわけじゃない。そして、守りたいと思っていることに違いはないのよ。原さん、あなたも」
「……あたしも?」
ごく普通のあたしから見ればとっても「すごい」はずの伊吹さんは、伊吹さん自身から見れば普通の人で、もっとすごい人を追っていた。
だけどその伊吹さんが、あたしを助けてくれたり、瑞穂さんや高橋を支えたり、目立たなくたって魔物退治をして、世界を守っているのなら。
「ええ」
……あたしも、そうなんだろうか?
伊吹さんが椅子を引き、立ち上がった。これで話は終わりらしい。
「さっきの狼で、最後だったんじゃないかしら。出迎えてあげましょ」
「お待たせー、終わったよ!」
がらがらと音がしてうどん屋の引き戸が開き、笑顔のジルさんを先頭に、エクソシストたちが戻ってきた。
「花折ちゃぁん!」
「わーっ!?」
伊吹さんの姿を見つけて堪えられなくなった瑞穂さんが、ジルさんを押しのけ飛び出した。そのまま伊吹さんに飛びつく。
「大丈夫だった!? 『裏』に行くって聞いて、お姉ちゃん心配で仕方なかったよー! ね、大丈夫? 何ともない!?」
「ちょ、ちょっとやめてよお姉ちゃん、いつものことでしょ、ちょっと、苦しい」
「いつものことでも、いつでも心配なのー!」
ぎゅうぎゅうと音が聞こえるくらい抱き締められて、伊吹さんが顔を青くしながらばしばしと背中を叩く。
再び扉の音。そちらを見ると、一番最後に入ってきた高橋が扉を閉めたところだった。相変わらず無表情の高橋は、だけどあたしの視線に気付くと、少しはっとしたような顔をした。
少し急ぎ足で近づいてくる。
「のばら」
「高橋!」
「大丈夫だったか」
「大丈夫だった?」
あたしと高橋の声が重なった。
「……ああ、俺は大丈夫だが」
さっきまで屋根の上を軽々と駆け回り、右手から最終手段を放って魔物退治していた高橋の、コートは少し皺になっていた。ああ、高橋は今日も世界を救ってきたんだなあ。でも高橋は狙いをつけるのが下手くそだから、自分の得意な方法(最終手段)で。
高橋は高橋のやり方で、高橋の世界を救ってきた。
あたしは。
あたしは、あたしのやり方で、あたしの世界を救ってこれたのかなあ。全力で走り回って、持っていた中途半端な知識であそこが「裏」だって気付いて、神の使いだって言っておじさんをかろうじて説得して。……うーん、やっぱりあたしは、神の使いでも何でもないただの中学生だ。全然スマートじゃないし、自分の得意な方法もよく分からないし、高橋のようには世界を守れない。でも、確かにかつてあたしは言ったのだ。思ったのだ。あたしの世界を守りたいって。
そう。
そう、あたしも。
あんな風には守れないし、あんな風以外の守り方も不格好だけれど。でも同じように守りたいと思ってるんだ。きっとそれは、少し前までのあたしとは違う思いのはずだ。
「あたしも、」
だからあたしは笑って言う。
「大丈夫だよ。神の使いじゃないけどね!」
あたしの言葉を聞いて高橋がきょとんとする。それがなんだか面白くて、あたしはけらけらと笑っていた。