間章 原材料は愛と友情とカカオ豆
「のばら、一生のお願いがあるんだけどッ!!」
 ぱんッ! と両手を勢いよく合わせ、前のめりの姿勢の明日香ちゃんが上目遣いであたしを見てくる。ちなみに明日香ちゃんは、何かお願い事をするときに大抵「一生のお願い」と言うので、あたしが知るだけでも二十回は人生を繰り返していると思う。
 金曜日のお昼休み。食べ終わったお弁当を片づけながら、あたしはしぶしぶ聞き返す。
「……えーと、一応尋ねるけど、お願いって何?」
「さっすが! さっすがのばら! 一生の親友!!」
数ある明日香ちゃんの一生のうちの一つの親友になれるとは光栄だわ……。
「あのね、明日、のばらのお家に遊びに行ってもいい? 台所を借りたいの」
「台所? ……ああ」
 その言葉でぴんときた。
 今日は二月十二日金曜日。なるほど、明後日はバレンタインデー。つまり明日は、バレンタインデー前最後の休日だ。
「チョコレートのお菓子を作りたいってこと?」
「正解でーす!」
 明日香ちゃんは満面の笑みで、背筋を伸ばし、親指をぐっと突き立てた。
「明日香ちゃん、誰かにチョコレートをあげるの?」
「ん? ああ、違う違う。男子にあげるんじゃなくてー、友チョコってやつをね! 配ろうと思って」
 恋する女の子が相手の男の子に気持ちを伝える一大イベント、バレンタインデー。一方でこの日は、女の子が仲の良い友達と手作りお菓子を交換し合う、いわゆる「友チョコ」という遊びが繰り広げられる日でもあるのだ。
「愛され羊キャラの明日香ちゃんとしては、こういうイベントにはがっつり参加して、友情の輪を広げておかないといけないでしょ」
 そして今度は笑顔を潜めさせて、口元に手を添えて小声で言う。
「だけど、わたしってこっちの世界に迷い込んだ魔物だからさー、台所がないんだよね、っていうか家がないんだよね」
「ないんだ……」
「ないよぉ! だから、台所を貸してほしいなって。のばらも友チョコ作るでしょ? 一緒に作ろうよぉ」
 去年、あたしたちは小学校上がりたての中学一年生だったので、バレンタインデーにお菓子を持ってくる子はごく一部だった。部活なんかで先輩たちが楽しそうに手作りお菓子を持ち寄っているのを見て、あたしも今年はやってみたいなあと思っていたんだけれど、毎日毎日部活に明け暮れる女子中学生にチョコレート菓子を作る暇なんてなく。作るとするなら、あたしも明日の土曜日になる、んだけど。
「作るつもりだし、あんまりお菓子作りが得意じゃないから誰かと一緒に作りたいのはやまやまなんだけど、台所を使っていいかはお母さんに聞かないと分かんないよ」
「それもそっかあ……、あ!」
 しょんぼりとした明日香ちゃんだったけれど、すぐに何か思いついたらしく、ぱっと顔を輝かせて人差し指を立てた。
「そうだ、あの人になら貸してもらえるかも! のばら、一緒にお願いしに行こ!」
「え? 誰? 誰に?」
「いいからいいから!」
 明日香ちゃんは「静電気」が起きないようにあたしの制服の袖を掴むと、ぐいぐいと引っ張る。されるがままに教室を出て、そのまま隣の二年一組の教室へ。
 スパーン、と気持ちよく扉を開け、よく通る大きな声でその名を呼んだ。
「花折ちゃ――ん!!」
「ぶッ」
 まさかの人選に、あたしと、そして優雅にお茶を飲んでいる最中に大声で名を呼ばれた伊吹さんは、同時に吹き出した。
 明日香ちゃん、伊吹さんに台所を借りるっていうの!? 驚くあたしを置いて、明日香ちゃんはうきうきと、手を後ろに組んでぴょこぴょこと弾むように伊吹さんの席へ近づいていく。
「ねー、ねー、かーおりちゃんっ」
「ゲホッ、ゲホッ、……な、何かしら」
 可哀想に、お茶が気管に入ってしまったらしい伊吹さんが、咽ながら答える。
「あのね、明日、花折ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」
「……はぁ?」
 とたんに伊吹さんが怪訝そうな顔をする。
「どういうつもり?」
「実はですねー、明後日はバレンタインでしょ。チョコレートづくりをしたいから、花折ちゃんのお家の台所を貸してほしいの! 花折ちゃんって、お姉さんと二人暮らしでしょ?」
 えっ、そうなの? と言いかけて、先月に高橋の家具を買いに行ったときに、伊吹さんとその姉の瑞穂さんに出会った時のことを思い出す。そういえば二人で、クッションや雑貨を買いに来てたんだっけ。あれは、二人で暮らしてるからだったのか。
 なるほどなあ、とあたしが納得していると、伊吹さんがものすごい顔であたしを見ていた。
「……原さん、私が姉と二人暮らしってこと、この魔物に言った……?」
「ええ!? 言ってない言ってない、あたしも今知った!! この間家具屋さんで二人を見かけたとき、そうは思い至ってなかったもん!」
「ふっふっふ、魔物たるわたしにかかれば、エクソシストの家族構成を知るくらい、朝飯前なのだー! 花折ちゃん、油断しちゃいけないぜ!」
「……何? 覗き見? 盗聴? 不法侵入? めでたいわね、どれでも訴えられるわ、どれがいいかしら」
「嘘!! 嘘です!! 嘘だから!! 高橋先生に聞いただけだから!!」
「あッッの阿呆!!」
 伊吹さんの手に握られたコップがバキンと音を立てた気がした。
 額にくっきりと青筋を浮かべながら、感情を押し殺すようにゆっくりと伊吹さんが言う。ここだけ、ただでさえ低い気温がさらに五度くらい下がったみたいだ。
「……で? なんだったかしら、私の家の台所を借りたいんですって?」
「うん、そうなんだよね! お菓子を作りたいの!」
「それを学校に持ってくるのかしら? ……頼む相手を間違えてるわよ、私は風紀委員長なんだけど?」
 成績は学年トップ、スポーツ万能、生徒と先生の満場一致で選ばれた風紀委員長、それがこの伊吹花折さんなのだ。そうだ、そんな彼女が、学校にチョコレートを持ってくるのを許すわけがないし、学校に持ってくるためのチョコレートづくりに協力してくれるはずがない。
 けれど明日香ちゃんは、にこにこと笑っている。一体何を考えているんだろう。
 怪訝そうな顔をする伊吹さんの耳元に、明日香ちゃんが口を寄せる。桜色の唇が小さく動き……。
「ッ!!」
 伊吹さんが息をのみ、顔がさあっと青ざめた。わなわなと唇を震わせる伊吹さんに向かって、いたずらが成功したかのような意地悪い笑みで明日香ちゃんが手を振る。
「じゃあ、明日の十三時にね、花折ちゃん!」
「ちょ、ちょっと、明日香ちゃん!?」
 そして、来た時と同じように、あたしの袖を掴んで教室を出て行く。
「明日香ちゃん、伊吹さんに何を言ったの……?」
「『花折ちゃんって、高いところと低いところと先っぽと酸っぱいものと犬と熱いものと水泳と花粉と鳩が苦手なんだっけ?』って」
 なるほど、数多くある彼女の苦手なもので脅したのか。この鬼、悪魔め……いやまあ、魔物なんだけど。というか伊吹さん、鳩も苦手だったんだ……。
「これで場所は無事確保ー! ねえねえのばら、わたしクッキーを作りたいんだけどいいかな? 一度にいっぱい作れるし! 可愛くデコレーションしてさあ」
「……うん、いいんじゃない?」
「やったー! あと何人か誘って、そうだなー、しっかり者の星川さんあたりに材料買うのはお願いしよっかな! それと、お菓子作り得意って言ってた大谷さんならクッキー型とかも持ってそうだから誘おうっと。わーい、楽しみになってきたなー!」
 持てる人脈をフル活用する計画らしい。したたかというか何というか。
「じゃあのばら、明日は十二時四十分に、守本駅の改札口に集合ね!」
 心の底から楽しそうに、明日香ちゃんは廊下を駆けていった。



「のばら。来週の月曜日は何の日なんだ?」
 金曜日の五限目、一週間の締めを飾る授業は、残念ながら音楽。
 授業終了後の掃除時間に、グランドピアノの蓋を閉めながら、ふと高橋が言った。クラスメイトはみんなそれぞれの掃除場所へ行ってしまって、音楽室にはあたしと高橋しかいないので、喋り方も表情も「先生」モードじゃない高橋だ。
「昼休みに職員室でご飯を食べていたら、何人かの先生に、『高橋先生は来週の月曜日はチョコレートをたくさんもらえますね』と言われたのだが」
 あぁー……あたしたちが盛り上がっているのだから、先生たちの間でそんな話がされるのも当然か。就任時の三学期始業式には女子生徒の歓声を集め、きちんと「先生」モードでいる限りは「優しくて」「かっこいい」高橋先生は、確かに生徒や、同じ先生からもチョコレートをもらえそうだもんねぇ……。
「その後、『でも受け取っちゃだめですよ』とも言われた」
「高橋、何の日なのか知らないの?」
 すると高橋は眉を顰め、少しの間悩む様子を見せてから、ゆっくりと言った。
「俺の誕生日、……だろうか」
「『だろうか』って何!? なんで自分の誕生日があやふやなの!?」
「いや、二月に生まれた覚えはないのだが、しかしプレゼントをもらえるということは本当は俺の誕生日だったのだろうかと思って。もしくは、皆が俺の誕生日を、間違って覚えているのかもしれない。俺は十二月生まれだし、『十二月』と『二月』は少し似ているものな」
「……高橋は十二月十五日生まれなの?」
「二十日」
「百歩譲って十二月と二月を間違っているとして、二十日と十五日が全然似てねえじゃねえか!!」
「いや、二十日と十五日は発音的には似ていないが、文字で見ると」
「似てねえよ!! 漢字でも数字でもローマ字でも似てねえよ!」
 だめだ、きちんと教えてあげないと当日にボロを出しそうだ。
「あのね、高橋。二月十四日はバレンタインデーでしょ」
「それは知っているが」
 高橋が頷く。あれ、バレンタインデーは知ってるんだ。そういえば、バレンタインデーにチョコレートを贈るのは、日本の習わしだって聞いたことがある。そうか、それでぴんときてないのかも。
「日本ではバレンタインデーに、チョコレートを贈るんだよ。女の子が好きな男の子に送ったり、お世話になっている人に配ったり。最近は、女の子が友達同士でチョコレートを持ち寄るのも流行ってるんだけど。で、今年の二月十四日は日曜日だから、その次の日の、二月十五日にチョコレートを渡されるんじゃないか、って話なんだよ」
「そうだったのか」
 あたしの説明に、やっと腑に落ちた、という表情で高橋が何度か頷く。そして真顔であたしを真正面から見て言った。
「つまり、のばらが俺にチョコレートを渡す日ということか」
「……はあああぁぁぁぁ!?」
 あんまりにも予想外の言葉に、脳みそが高橋の言葉を処理できなくて、素っ頓狂な声を上げるのにも数秒かかってしまった。当の高橋は表情一つ変えずに首を傾げる。
「お世話になっている人にチョコレートを渡すんだろう」
 あ、ああ、そっちか。……じゃない!
「誰が!? 誰の!? お世話になっているから誰にチョコレートを渡すって!?」
「のばらが俺のお世話になっているから、俺にチョコレートを渡す」
「高橋があたしのお世話になってるから、あたしにチョコレートを渡すんでしょ、どう考えてもぉぉぉぉッ!!」
 出会ってから一ヶ月、魔物退治に最終兵器探しに家具購入に、その他もろもろ巻き込んで振り回しておいて、どの口がチョコレートを要求するのか!
 もう一言、二言くらい文句を言ってやろうかというところで、掃除時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 黒板消しで雑に文字を消して、服に付いたチョークを払いながら音楽室を飛び出す。
「じゃあね、高橋!」
「ああ」
 教科書を棚に仕舞いながらそっけない返事をされた。まったく。たぶんあたしの説明で、日本におけるバレンタインデーについては理解したとは思うけど、理解してすぐにチョコレート要求とは、なんて図々しいエクソシストだ。
 ……。
 ……友達にあげるつもりしかなかったから、考えてもいなかったんだけど。こうして直接言われてしまうと。
 ……チョコレート、……あげた方がいいのかな?
 い、いやいやいや! あたしはぶんぶんと首を横に振って、その考えを追い払う。なんであたしが高橋にあげなきゃいけないんだ。あたしがもらう側!
 ……。
 ……甘いもの、苦手だったりするかな。さっき聞いとけばよかったかな。
 い、いやいやいや! あたしはまたぶんぶんと首を振る。あたしがあげなくったって、高橋「先生」のことだもん、どうせ生徒や先生からたくさんチョコレートを貰うって。
 ……。
 ……。
 い、いやいやいや!! だからぁ、そもそもなんであたしが高橋に、……、……いや、やめよう。あたしは首を振るのをやめた。
 なんであたしが高橋に、って、そりゃあ。巻き込まれて振り回されて散々な目に遭わされてるけど、こうやってなんだかんだ一緒にいて、自分の世界を、その目に映るあたしを含めて守ろうとしてる高橋のことを、あたしは嫌いではないし、気になってしまうのだ。
 仕方がないなあ、あたしがチョコレートをあげようじゃないか!
 ふんっ、と息を吐いて顔を上げたところで、
「……のばら、何をそんな、首を振ったり酸っぱい顔したり鼻息荒げたりしてんの?」
 廊下にいた明日香ちゃんに、変なものを見るような目で見られたのだった。



 二月十三日土曜日、お昼の十二時四十分。
 明日香ちゃんの言葉通り、材料の買い物を頼まれたらしく重そうなスーパーの袋を持った星川七瀬ちゃんと、きっとクッキー型やボウルなんかの道具が入ったこれまた重そうな紙袋を持った大谷未來さん、そして明日香ちゃんとあたしの四人が、守本駅の改札口に集まった。
 七瀬ちゃんはあたしが所属する陸上部の副部長で、クラスも同じだからよく一緒に過ごしてる友達なんだけど、大谷さんは部活も吹奏楽部だし同じクラスになったこともないから、あんまり話したことがない。でも、明日香ちゃんがテンション高く登場して騒がしく喋りながら歩き出すもんだから、珍しい組み合わせのあたしたちもなんだか楽しくなってきて、ぺちゃくちゃおしゃべりしながら伊吹さんの家への道を行く。
「でもさあ、明日香、よく伊吹さんの家にお邪魔できることになったね? っていうか、よく伊吹さんにそれを持ちかけたよね」
 七瀬ちゃんが半分呆れたような顔で言う。先頭を行く明日香ちゃんが、にやりと笑いながら振り返った。
「ふっふ、愛され羊キャラの明日香ちゃんにかかれば、花折ちゃんだってイチコロよ」
「明日香さぁ、その『愛され羊キャラ』って何なの?」
「ほら、わたしってゆるふわだから?」
「お前その図々しさで……」
 九割方呆れたような顔で七瀬ちゃんが言うけど、あたしはそのネタのぎりぎりっぷりに冷や汗が出てきた。みんな、まさか明日香ちゃんが羊の魔物だなんて夢にも思ってないだろうから、ばれやしないだろうけどさあ。
 くすくすと大谷さんが笑う。
「初瀬さんすごいね、こうやって先頭を行ってるってことは、伊吹さんの家への行き方を知ってるんでしょ? 行ったことあるの?」
「ううん、初めて!」
「へえ、じゃあ伊吹さんが教えてくれたの? すごいねえ」
 ……いやいや、伊吹さんが教えるとは思えないんだけど。一体どうやって知ったんだか。恐るべし、初瀬明日香。
 他愛ない、かつぎりぎりなおしゃべりをしている間に、伊吹さんの住むマンションに到着した。六階建ての綺麗な建物だ。その五○三号室に、伊吹さんの部屋はあった。
「……いらっしゃい」
 なんとか整えた笑顔でドアを開け、伊吹さんが迎え入れてくれる。
「わーいっ、お邪魔しまーす!!」
 玄関で靴だけ揃えて、早速部屋に突撃する明日香ちゃん。
「こんにちはー」
「お邪魔します!」
「……お邪魔します……」
 七瀬ちゃん、大谷さん、あたしの順で続く。……本当にすみません伊吹さん、お邪魔します……。
 レースのカーテン越しに日の光が入る、明るく広いダイニングキッチンと、パーテーションで区切られたリビング。外観同様、部屋の中もとても綺麗だ。きちんと整頓してあって、ナチュラルな雰囲気の家具やソファが置かれている。あ、ソファに置かれているピンクのクッション、先月に家具屋さんで会った時に伊吹さんと瑞穂さんが買ってたやつだ。
「そういえば、瑞穂さんは?」
 あたしが小さく耳打ちすると、伊吹さんはじろりと下からあたしを見てきた。
「……出かけさせたわよ。面倒の芽はできる限り摘むに限るわ……」
「……あ、はい……」
「……そして、生えてしまった面倒は、できる限り早く刈るに限るわ」
 そう低い声で早口に言い切ると、にこりと笑顔を浮かべ、声のトーンを一気に二段階くらい上げた。
「初瀬さん、早速だけど、お菓子作り、しましょ?」
 明日香ちゃんが堂々とソファに座っているのを見て、若干顔が引きつりかけたけど、そこで笑顔を保ったのはさすが伊吹さんだった。精神力がすごい。
「うん、そうだね!」
 ぴょこん、と明日香ちゃんがソファから立ち上がる。腕まくりをし、腰に手をあてて。
「よーし、じゃあお菓子作り、始めましょう!」

 お菓子作りが得意でよく作るらしい大谷さんのおかげで、クッキー作りは着々と進んでいく。
「じゃあ次は小麦粉を測るね。小麦粉は三百グラム、少しずつ入れて……」
「え?」
「あああああ初瀬さんそんなどばっと一気に、げほッ、げほッ!!」
 ……訂正。クッキー作りはなんとか進んで、……るの?
 明日香ちゃんが小麦粉の袋を真逆さまにして、一気にボウルにぶちまけてしまった。白い粉が部屋中に舞う。
「ちょ、ちょっと!? 何やってるの」
 少し離れたリビングから、ぎゃあぎゃあ騒ぐあたしたちの様子を見ていたらしい伊吹さんが、悲惨な様子を感じ取ったらしく寄ってくる。髪の毛に小麦粉をつけた明日香ちゃんが伊吹さんに泣きつこうとする。
「花折ちゃーん!!」
「うわッ、やめなさいよ!」
 明日香ちゃんに触れると「静電気」が起きてしまうのと、あとはたぶん明日香ちゃんが小麦粉まみれだったので、伊吹さんは避けた。明日香ちゃんはべちょん、と床に突っ伏した。
「あああもう、後で床を拭きなさいよ!?」
「ううー、花折ちゃんも手伝ってよぉ」
「はぁ? 大谷さんがきちんとやってるのに、あなたが適当に小麦粉を入れたんでしょうに。台所を貸すうえに手伝いもなんて、しないわよっ」
 髪を軽くはたいて、伊吹さんがリビングへ戻っていく。……が。
「じゃあこのバターを、電動泡立て器で混ぜてね。きちんと押さえないとバターが飛び散って」
「え?」
「あああああ初瀬さんバターが飛び散ってる!!」
「明日香に任せちゃだめだ、わたしがやる! 大谷さん、この小麦粉はどうしたらいいの? 入れる!?」
「あ、待って、それは少しずつふるい入れて……」
「え?」
「星川さんそんなどばっと一気に、げほッ、げほッ!!」
「……え、えっと、明日香ちゃんも七瀬ちゃんもだめそうだからあたしがやろっか?」
「じゃあ、小麦粉が一気に入っちゃったけど、とにかくそれを混ぜよっか。……原さん違う電動泡立て器じゃなくてヘラで混ぜないと粉が」
「え?」
「飛び散、げほッ、げほッ!!」
「こらあああああああ!!」
 悲鳴のような怒号とともに、今度こそ伊吹さんが飛び込んできた。入れ替わるように、明日香ちゃん、七瀬ちゃん、あたしがぽいぽいぽいっと台所から弾き出され、伊吹さんの細くて長い人差し指がびしっと突き付けられた。
「星川さん!!」
「は、はいッ!!」
「雑巾を持ってきてッ! 原さんはバケツ! 水入れて濡らして拭く!! 大谷さんは!」
「はいぃっ」
「私と一緒にこのクッキー生地もどきをなんとかクッキー生地にする!! はい、ヘラ!」
「あのー花折ちゃん、わたしは」
「初瀬さんはそこで反省してなさいッ!!」
「はい……」
 ぶち切れてしまった伊吹さんに誰も逆らえるわけなく、指示されるがままに働いて、三十分。
 そこにはつやつやした、見事なクッキー生地が現れていた。
「す、すごー……」
 感嘆の声を上げる七瀬ちゃんに、ふんっ、と伊吹さんが長い黒髪を払う。
「元々大谷さんがきちんとしていたから、リカバリーくらい訳ないわよ」
「まさか伊吹さんが手伝ってくれるとは」
「これ以上部屋を汚されたくないし、私の家の台所を使ったっていうのに酷いクッキーを作られる訳にはいかないってだけよ、勘違いしないで」
「とか言ってー、花折ちゃんもやっぱりクッキーを作りたかっ」
 ゴン、と、例えるならば頭とまな板がぶつかるような音がして、明日香ちゃんが床に沈んだ。
 とにもかくにも、あたしたち全員分のクッキーを作るのに十分な量の生地が出来上がった。
 これを大谷さんが平らに伸ばして(さすがにあたしたちはもう手を出さなかった)、それぞれ思い思いの型で抜く。あたしはクマさんの形。そっと持ち上げて、オーブン用の鉄板に敷いたクッキングペーパーの上に並べていく。焼き上がったときにくっつかないよう、少し離して置くこと、って伊吹さんが教えてくれた。なんだかんだで、伊吹さんは世話を焼いちゃう性格らしい。
 みんなが並べ終わったら、予熱したオーブンに入れて、百八十度で十五分。
 ああ、甘くて香ばしい匂いが漂ってくる。
 待ちきれなくて、オーブンの前で顔を寄せ合って覗き込む。ぴー、と焼き上がったことを知らせるアラームが鳴って、大谷さんが重い蓋を開ける。溢れる熱気と、たまらない香り。クッキーの出来上がりだ!
「熱っ、熱、……んー、おいしいー!」
「こら明日香、何いきなり食べてんの!」
「味見! うん、うん、おいしくできてる!」
 いい具合に焦げ目のついたクッキーを、網の上に置いて冷ます。
 明日香ちゃんが七瀬ちゃんの持ってきたスーパーの袋からまた新しい材料を取り出した。茶色、白、ピンクのチョコペン、アラザン、ハート形の小さな砂糖菓子、溶かして使うチョコレート。
「このままでもおいしいけど、せっかくだからデコレーションしよー!」
「よーし!」
 甘い匂いと、並んだデコレーション材料に、あたしたちのテンションが上がる。
「のばらはクマさんだから、顔を描く?」
「そうだね!」
 早速あたしはチョコペンを手に取った。



 二月十五日月曜日、朝。
 あたしは、右肩にいつもの学校カバン、左手にいつもは持たない紙袋を持って、学校への道を歩いていた。白い吐く息、かじかむ手、……重い足。うう、と知らず漏れた声も、やっぱり間抜けに白くなって消える。アスファルトばかり映る視界。
 そこに、突如、
「あ、のばら」
「うわあああああ!?」
 ガタンッ、と大きな音ともに、マンホールの蓋が開いた。蓋を押し上げた格好で中にいたのは、マフラーを巻いてコートを着た金髪碧眼の。
「た、高橋ぃぃ……!?」
「おはよう」
「お、おは……ようじゃねえよ、何やってんの!!」
 なんでこいつはマンホールの中から出てきたんだよ!
「通勤中だ」
「高橋の通勤ルートは地下なの!?」
「いや、通常は地上を歩いて学校へ通っているのだが」
 軽く跳んでマンホールから出て、地面に立ったエクソシストは、大きな音を立てないように蓋を閉めてから、少し埃のついたコートを手で払った。
「のばらの通学ルートに先回りするには、地下を通るのが一番早かったからな」
「先回りって、どうして」
「チョコレートを渡しに」
 こともなげにそう言って、高橋は黒いカバンの中に手を入れた。
 ……は? チョコレート?
 ……あたしに?
「のばらから聞いたからな、お世話になっている人にチョコレートを渡す日だと。話しぶりからして、どうやら手作りするもののようだと思ったから、作ってきた」
 書類をかきわけ、出てきた小さな箱を、その手であたしに差し出す。
 きっちりとリボンが巻かれていて。透明な蓋から見える丸いチョコレートは、綺麗に飾り付けられていて。
「いつも世話になっている。これからもよろしく頼むぞ、神の使い」
「神の使いじゃ、……」
「……どうした?」
 高橋が尋ねる声がするけれど、……あたしは、いつものように神の使いじゃないって言うことも、差し出されたチョコレートを受け取ることも、俯く顔を上げることもできない。
 だって。
「……あたし、高橋にあげるチョコレート、ないもん……」
 左手に持った紙袋が、重くて、軽くて、かさりと音を立てる。
 クッキーはおいしく焼き上がった。だけど、その後のデコレーションがうまくいかなかった。あたしのクッキーの形はクマだったから顔を描こうとしたんだけど、慣れないチョコペンじゃ、目と目と鼻と口を描くだけなのにきちんとできたのが一個もなくて。仕方がないから全面にチョコレートを塗って失敗をごまかそうとしたけど、これもやっぱり綺麗に塗れなくてでこぼこだし。せめてと思って乗せたアラザンとか砂糖菓子が、余計に失敗を際立たせてるし。
 だからって作り直す時間もお小遣いもなくて。もう友チョコは「味はおいしいから!」で押し通すつもりだけど。
「……失敗して、……だからあげられるもの、ない……」
 ああ、いやだ、いやだ、こんなこと言ったってしょうがないのに、相手は高橋なんだから、いっそ笑って押し付ければよかったのに、って訳の分からない後悔が頭の中をぐるぐる駆け回る。
 しばらく黙っていた高橋が、やがて淡々と言った。
「それはまあ、光栄だな」
「……はい?」
 訳の分からない考えに満たされた頭に、もっと訳の分からない言葉が入ってきて、あたしは思わず顔を上げた。高橋はいつも通りの、なんてことない表情をしている。
「あげられる出来のものをあげよう、と思われていたんだから」
 今度こそ本当に訳が分からなくて、ぽかんと口を開けているうちに、高橋の手があたしの左手の紙袋をするりと取っていった。中からタッパーを出して、……って、ちょっとちょっと! あ、あああ、こいつクマさんの頭から食べやがった!!
「何してんのぉぉぉぉッ!!」
「味はうまい」
「……そうでしょうよ、おいしくできたんだからぁぁぁぁぁッ!!」
 呑気に指についた粉をなめている高橋の背中をグーで叩いたら、「痛いんだが」と文句を言われた。

 ちなみにその後の友チョコ交換会でも、あたしのクッキーは「味はおいしい」との評価で満場一致だった。……あたしは、来年のバレンタインデーまでにチョコペンを扱えるようになろうと、強く決心した。