第三章 ファンシー・フライヤーズ・フォール
2.あたしと魔界と逃亡者−1
 おじさんは、五分ほど経って復活した。よかった。
 顔をしかめながら、お腹を押さえてゆっくりと上半身を起こしたおじさんは、そろそろと目を開けた。あたしを見て、左右を見回し、もう一度あたしに視線が戻り、――勢いよく起き上がった。
「こ、ここはどこだッ、……ううう」
 後半はお腹を押さえてうずくまってしまった。高橋の財布をひったくったおじさんとはいえ、ここまで痛がっている様子を見ると申し訳なくなってきて、おじさんの手をとる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、なんとか……しかし、一体、何が起こったんだ……?」
 素直にあたしの手をとり、恐る恐る立ち上がったおじさんは、再びきょろきょろと辺りを見回し始めた。
「高いところから落ちたような感じがしたんだが……それに頭を打ったのか、目が霞むような……」
 小さな目を瞬かせる。そしてあたしの方をしばらくじっと見た後、はっと気づいたように手を振り払った。
「きゃっ!?」
「あ、いや、すまない、いやしかし、う、」
 早口で何かを喚き、周囲を見て、
「うわああ、……ううう」
 駆け出し、そしてお腹を押さえてうずくまった。この間、五秒もなかったと思う。
「大丈夫!?」
「う……うわあああ!!」
 それでも、駆け寄るあたしを振り切るように、おじさんは再び立ち上がって、叫びながらT字路の方へ走っていってしまった。
「ちょ、ちょっと、おじさぁん!?」
 どうしたっていうのよ! あたしは慌てて追う。ついさっきと同じ構図。つまり、きっとおじさんは、あたしたちから逃げていたことを思い出してまた逃げ始めたんだと思うんだけど、ちょっと待ってほしい。こんな、あたしだって訳の分からない状況で、一人にしないでよ! おじさんを追うあたしの必死度はさっきの数倍増しだ。そしてあたしが追えば追うほど、おじさんも「追いつかれれば死ぬ」くらいの感じで逃げていく。現れた十字路をおじさんが曲がって、あたしも追って、あ、ああ、見失った!!
 けれど絶望するより早く、
「うわあああああ!?」
 再びおじさんの叫びが耳に届いた。けれど今度はどうも様子がおかしい。肺から無理矢理絞り出したような、半分ほど裏返った声は、なんだかとんでもないことが起こったかのようだった。一体何があったっていうんだろう、声のした方へ曲がったあたしの目に映ったのは、腰を抜かして地べたに座り込んでいるおじさん。
「どうしたんですか!?」
「あ、あ、ああ、あれ」
 がくがくと震えながら、持ち上げられた右手が、不格好に指差すその先には。
 ……特に……何も、ない。四車線くらいの大きな道、恐らく駅前通りが先に見えたので、やっぱりここはかなり駅のそばだったんだなあ、と思ったくらいで。
「おじさん、一体どうしたの……」
 その時だった。
 かさり、と小さな音が背後から聞こえた。無音の世界でやけに大きく聞こえたその音に、振り返られなかったのは、気配を、感じたからだ。
 後ろに。
 あたしの後ろに何かがいる、と、あたしの頭が、身体が、本能的に言っている。脳が急に回転率を増して、足から悪寒が駆け上がる。
 後ろ。
 後ろに。
 振り返ることはできなくて、あたしは息を止めて、視線を落とした。自分の左の足元から、後ろへとゆっくり辿っていく。つまさき。かかと。その後ろの砂利。その後ろの砂利。その後ろの砂利。その後ろの……。
 うつむいたままじゃ辿れなくなって、ついに顔を上げる。
 何もいない。
「……な、なーんだ」
 通ってきた道があるだけだ。力が抜けた。もう、びっくりしたじゃないか。一体、おじさんは何にそんなに怯えていたんだろう。まだちょっと震える声と、反動でやってきた笑顔であたしは言う。
「何もいないじゃないです」
 か。
 前を向いたあたしの目の前にあったその顔と、目が合った。

 そこから今までの記憶が全くないんだけど。この息の切れ方、足の震え、喉の痛みからするに、あたしとおじさんは絶叫して、めちゃくちゃに走り回ったんだと思う。走って走って走って、あれだけ走ったあたしたちが走れなくなるくらいまで走って、もうどこだか分からない路地でついに倒れ込んだ。仰向けになって肺とお腹だけ動かして何度も何度も呼吸して、やっと思考が追いついた。
 ああ、ああ、ああ、び、びっくりした……!!
 何なの、今のは! 目の前に顔があった。目と目と鼻と口があったのだ、あれは顔だ。人の顔じゃなかったと思う、大きくて真っ黒な、怪物みたいな顔!
 思い出して、こんな無防備に寝転がってる場合じゃないことに気付いて、慌てて起き上がる。すぐそばで、こちらはうつ伏せに丸まっていたおじさんも、ちょうど身を起こしたところだった。あたしの顔を見たおじさんは、真っ青な顔で、わなわなと口を震わせる。な、な、と何度か「な」を繰り返して。
「……な……何なんだここは、何なんだあれはー!!」
 あたしに向かって唾を飛ばさんばかりの勢いで叫んだ。
「なあ!! 何なんだ!!」
 もう掴みかかってきそうだ。そ、そんな、どうしてあたしに向かって言うのよ!
「あ、あたしが知るわけないでしょー!? そんな直球で当たり前の疑問、あたしが聞きたいんだけど!! 何なのよここは!!」
「私が知るわけ、な、ないだろう!? 何なんだあれは、おい!?」
「だから知らないってば!! 何なのよ、ここ、梨川駅前みたいなのに何かおかしいし!!」
「私が知らなくて私とお嬢ちゃんしかいないんだから、お嬢ちゃんが何か知ってるんじゃないのか!!」
「何それ!? それはこっちの台詞なんですけど!?」
「そもそもおかしいのは、地面に立っていたはずなのにどこかから落ちた感覚があったんだぞ、その直前に何があったって、お嬢ちゃんが私の腹に肘鉄したじゃないか!! 今も痛いんだぞ!!」
「そもそもなんて言ったら、おじさんが高橋の財布をひったくったうえに、あたしを人質にとったのが悪いんでしょー!?」
 しばし、お互いに息を切らして、にらみ合い。
「……私が悪かった……」
「あたしも、あそこまで痛がるとは思ってなかったです……」
「いや、悪いのは私だから……」
 ため息と同時に脱力して、二人一緒に地面に座り込んだ。

 何かがおかしいことは分かる。けれどあまりにも、いろんなことが不確かだ。
 おじさんとあたしは、辺りを探索することにした。さっきの謎の怪物が恐ろしいので、二人一緒に、慎重に。
 そうして分かったのは、やっぱりここは梨川駅前だということ。住宅街やお店が並ぶ小道、駅前通り、今日行った家具チェーン店にも行ってみたけれど、高橋どころか人っ子一人見当たらなくて、なぜだかここにはあたしとおじさんしかいないということ。相変わらずあたしたちの声や足音以外の音は聞こえないこと。建物や物はきちんとあること。
「何なんだ……誰もいない……まるで物語か、夢の中のようだなあ……」
 家具チェーン店で、整然と並ぶ雑貨コーナーの棚を見渡しながら、おじさんがぼんやりと呟いた。
 人がまるごと消えてしまった街は、現実味がない。なんだか、あたしの知る世界とは、違うものみたいだ。
 一体ここは何なんだろう、あのとき、あの穴みたいなものに落ちた、ような感じがしてから……。
 ……穴?
 ふと、今になってその言葉が頭の片隅に引っかかった。……なんだろう、なんだか大事なことに思い当たりそうな気がする……。
「お嬢ちゃん、そろそろ行こうか。やはり誰もいないようだし……」
「あ、はい、そうですね」
 おじさんに促され、一階に降りて、一緒に自動ドアから出る。自動ドアは、あたしたちにも反応して、きちんと自動で動いてくれた。
 何かに出くわさないように、慎重に辺りの様子を覗いながら、また駅前通りから小道へ入る。あんまり広い道は、遮るものがなくて不安なのだ。またさっきの怪物に出会ったらと思うと。
 あの怪物は、何だったんだろう。驚いてすぐに逃げ出したから、あんまりはっきりと覚えていないんだけど。……思い出すと怖いから、あたしはあまり考えないように、首を横にぶるぶると振った。
「お嬢ちゃん、喉が渇いたりはしていないかい?」
 おじさんがズボンの尻ポケットから、小さいサイズのペットボトルを出した。
「え、うん、大丈夫」
「そうかい」
 お尻のポケットだし、走り回ったから泡立ってるし、あんまり飲みたいものではなかったので断ると、おじさんはペットボトルをまた仕舞った。自分が飲みたかったわけじゃなくて、あたしを気遣ってくれたらしい。
 ひったくりをしたり、あたしを人質にとったりしてた頃から比べると、おじさんはすっかり大人しくしょんぼりしてしまっていた。あああ、と息とともに声を絞り出して、顔を手で覆う。
「どうしてこんなことになってしまったんだろうなあ……」
「本当ですよねえ……」
 あたしも、はあとため息をついてうなだれる。あたしの言葉を聞いたおじさんは一瞬息を止めて、何かを言いかけたけれど、何も言わずにまた息を吐き出した。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。おじさんの言葉を頭の中で繰り返す。……やっぱり、あのとき、高橋に手を引かれたとしても、あたしは一緒に行かないほうがよかったんだ。こんな訳の分からないことになって、高橋もいないし、あたしじゃ何も分からないし、何もできないし。ぎゅううと胸が締め付けられて、あたしはそのままうずくまる。押さえられない声が、ううう、と漏れる。
 ふと、後ろからとんとんと肩を叩かれた。
 おじさんが励ましてくれてるのかな。あたしは袖で目を擦ってから、顔を上げた。
 顔を上げた先に、おじさんがいた。
 ……あたし、今、後ろから、肩を叩かれなかったっけ。
 おじさんは、今にも叫びだしそうな顔をしている。
「え」
 あたしは振り返り。
 その怪物と、目が、あった。
「うわあああああああ!?」
「いやあああああああ!?」
 あたしとおじさんは同時に叫び、同じ方へ同時に走り出した。
 怪物、怪物が出た、出たあああああああ!!
 めちゃくちゃに走る。走る。走る。ああ、あたし、どうして陸上部で短距離を選択したんだろう、長距離にすればよかった! 肺がきしむ、足が悲鳴を上げる。
「お嬢ちゃん、早く! 早く!!」
「分かってますぅぅぅぅぅ!!」
 先行するおじさんからはぐれないように必死で走る。おじさんが角を右に曲がる。あたしも続いて曲がり、そのとたん、顔面から、何か大きくて柔らかいものにぶち当たった。
「きゃああああ、あ、……お、おじさん?」
 おじさんの背中だった。
「どうして立ち止まって……」
 答えないおじさんの背中から、ひょいっと顔を出す。
 道の先に、両脇の塀をゆうに超える背丈の、真っ黒で、巨大な怪物がいた。
 四本の脚。曲がった二本の角。爛々と光る眼。隆々とした身体。
「や……やだ……」
 運が悪いにも程がある、どうして逃げた先にまた怪物がいるの!! しかもあんなに恐ろしい風貌の!!
 とにかく引き返さないと!
「おじさんっ、戻っ、戻りましょ……」
「お嬢ちゃん」
 上ずるあたしの声を、震えるおじさんの声が遮った。足も震えている。
「おじさんはここでこいつを食い止めるから、お嬢ちゃんは、先に逃げなさい」
「は……?」
 そのうち歯ががちがち鳴り出すんじゃないか、ってくらいの震え声で、おじさんは言う。なのに、思わず腕を引っ張っても、おじさんはびくともしない。
「何言ってるんですか、おじさん!?」
「ここがどこなのか、未だにさっぱり分からんし、どうしてこんなところにいるのかもさっぱり分からん。けれど、どうしてこんなことになってしまったのかは、きっと分かる。私が君を人質にしなければ、君と一緒にここへ落ちることはなかっただろう。その前に、私が君の連れの人の財布を盗っていなければ、君が私を追ってくることはなかっただろう。その前に、……いや……とにかく、きっと、私が、君を巻き込んでしまったんだ」
「おじさん」
 あたしには、どうしておじさんがそう思ってしまったのか分からなかった。
「だめです、一緒に逃げましょう!?」
「いいや、行ってくれ」
「でも!」
「早く……!」
 怪物が、ざっ、ざっと前脚で地面を蹴る。どっ! と風が吹いたかと思うほどの勢いでこちらへ向かって走り出した!
 すぐ目の前に迫る恐怖に、あたしもおじさんも動けない。ああ、もうその角が、あたしの身体を――。

 すり抜けた。

「……あれ?」