第三章 ファンシー・フライヤーズ・フォール
1.恋の話をしよう−6
「ちょっ」
「ノディくん、のばらちゃん、きっ、気をつけてねー!」
 慌てたような伊吹さんの声と、瑞穂さんの若干緊迫した応援が聞こえてきたけれど、手を引っ張られてるあたしは、もつれる足をどうにかするので精一杯だ。
「ま、待って高橋っ」
「ん?」
 正面のT字路をおじさんが左に曲がる。高橋、それから引っ張られるあたしもそれに続く。舗装のされていない砂利道、踏ん張るスニーカーがざりっと音を立てる。
「あっ、あの」
 手を引っ張り返そうとするんだけど、走ってることもあってうまくいかない。高橋が少し振り返って、首を傾げる。
「どうしたのばら、忘れ物か」
「いや、忘れ物はしてないけどっ」
「そうか、それならよかった」
「そうじゃなくてっ……!」
「ああ、走りにくかったか?」
 高橋の視線が少し下がって、掴んだ手を見る。
「確かに走りにくいけど、そ、そうでもなくって……!」
 傾げる首の角度が深くなる。あたしたちの前では、おじさんが今度は十字路を右に曲がった。駅前通りから随分離れてしまって、周りはすっかり住宅街だ。
「そうでもないとすると、……ああすまない、最近冷え性気味なんだ。これでも頑張って生姜を摂取するように努めているから、心を広く持ってもらえると嬉しいんだが」
「確かにあんたの手冷たいけど、それで文句言ってる訳でもないんだってば!」
「なら何だ?」
 真顔のまま高橋が尋ねてくる。うう、と少し躊躇ってから、でもたぶん高橋は察してなんてくれないし自分で言わなきゃいけないと諦めて、あたしは口を開く。
「さ、さっき伊吹さんが、あたしはもう付いてくるなって言ってたからっ……」
「……ああなるほど」
 少し考えてから高橋は思い当たった、という風に頷いた。けれど続いて、「しかし」と言う。
「しかしのばら、これは魔物退治とは関係がないから、問題ないのではないだろうか」
「う」
 た、確かにそうなんだけどっ、でも伊吹さんにそう注意された直後だから、魔物退治と関係なくったって遠慮したいじゃないか……!
「魔物退治じゃなくっても、それに伊吹さんに行っちゃだめって言われなくったって、そもそもあたしはそんな力もないし、資格もないし……、……高橋、何を取り出そうとしてるの」
「運転免許証。これがないと身分証明にいささか不便なのだが、この際仕方がない、のばらに貸してあげよう」
「なんで免許証!? ……もしかして、あたしが『資格がない』って言ったからそれをくれようとしてたりします? いらねえよ!!」
「だが俺が持っている資格と言えば、あとは漢検三級くらいしか……」
「あたしも漢検なら準二級を持ってるよ!! だからそもそもそういう資格じゃないんだってば……!」
 なんだかそろそろ泣きたくなってきたんだけど、高橋は突き返された免許証を手に、いつも通りの無表情であたしを見る。
「しかしのばら」
 あたしの名前を呼んで。
「お前はお前の世界を守るのではなかったのか?」
「それは、……」
 それは確かにあたしが自分の口で言ったことなんだけど、あたしはもごもごと口の中で言葉にならない音を泡立たせることしかできない。そうこうするうちに高橋はふいっと前を向いてしまった。
「しかし、なかなか追いつけないな」
 ああ、聞いてくれる気も、手を離してくれる気もしない。結局連れ回されて、いいのかこれ……。
 現状は、高橋の言葉通り。普通に考えれば、推定四十代後半のおじさん相手に、二十二歳(仮)と現役陸上部の中学生が負けるはずがないと思うんだけど、今のところ全くおじさんとの距離は縮まっていない。
 どうやら、あたしと高橋の前方十五メートル位を走っているこのおじさんは、この辺りの地理に詳しい人らしい。住宅街の合間の狭くて分岐の多い道を、迷うことなく進んでいく。こっちは二人で追っているから、狭い道が走りにくいのに! しかもおじさんはスピードがちっとも落ちていない。ひったくりをしたから必死で逃げているんだろうけど、それにしても強いなこの四十代後半(推定)! ああもう、鼓動が速い、息が切れてくる!
 おじさんがまた十字路を右に曲がった。あたしたちも曲がって、……先におじさんの姿が見えない!
「えっ、ちょっ」
「左だ」
 十字路の先にあった、次の十字路を左に曲がると、おじさんの姿が再び現れた。ま、捲かれるところだった……! 次はY字路を左。通りすぎた家から、犬の吠える声が聞こえてすぐ遠くなる。
「だが、これでは埒が明かないな」
 高橋が右手を前に出す。そこに灯る、日光の下でもはっきりと分かる白い光。
「……って、いや、だめだろ! それっ、対魔物用でしょ!?」
「大丈夫大丈夫、ちょっと脅す……、おっと、舌を噛んだ。ちょっと驚かせるだけだ」
「舌を噛んだっていうか、完全に言い直したよね、今!?」
「しかし、あの財布には、俺の現時点での全財産が入っているんだ」
「全財産!? 持ち歩いてる方が悪いだろ、何円よ!!」
「家電と家具を買って、あと伊吹たちのうどん代を立て替えているから、残り四百八十円くらい」
「どこの小学生の所持金だよ! うどん代が返ってきてもまだ酷いだろそれ、明日からどうするつもりだったの!?」
「……本当だ。どうしようか、神の使い」
「知らねェェェ!!」
「まあそれは後で考えてもらうとして、光の話に戻そう。以前に説明したとは思うが、この白い光は、『裏』とこちらとの境界に干渉する力を持つ。すなわち、魔物に対しては絶大な効力を持つが、こちらの世界の存在に対しては当たったところでちょっとすーすーするくらいだ。ミント味のガムを噛んだ後に冷たいお茶を飲んだ程度なので、特に問題ない。大丈夫だ。よし」
 うわあ、信用できねえ! でも、あたしが何か言う前に、高橋は右手を上げた。
「最終手段」
「またかお前ェェェェェ!」
「のばら、一瞬目をつぶれ。――発動!」
 目を閉じて真っ暗になったはずの視界が、一瞬かっと白に染まる。
 前方からおじさんの叫び声、そして転んだような、激しく砂利が散らばる音。
「返してもらうぞ」
 高橋の声に、あたしは目を開ける。横に並んで走っていた高橋がスピードをあげて、あたしを追い抜いていく。目を押さえ、片膝をついた状態からなんとか慌てて立ち上がろうとするおじさんに向かって一直線、取り押さえようと手を伸ばす。
 その手を、おじさんはかいくぐった。
 まさに触れるその瞬間、立ち上がる方向を変えたのだ。走っていこうとしていた方向から、走ってきた方へ。不意をつかれて、高橋はおじさんを追い抜いてしまう。おじさん、強すぎるって! これが火事場の馬鹿力なのか。火事が起こってなくてこれだなんて、このおじさんは本当に火事場に遭遇したらもう相当すごいんじゃないか。
 そして、走ってきた方に向かって立ち上がったおじさんは、その方向――つまりあたしに向かって、猛ダッシュしてきた!
 捕まえるとか、身構えるとか、そういったことが頭から一瞬飛ぶ。真正面からおじさんに、ぶつかってこられるくらいの勢いで突っ込んでこられて、身体が動かなくなる。しまった、そうじゃない、捕まえなきゃ、なんとか手だけ伸ばす、その手が掴まれた。
 声を出す暇もなく。おじさんはあたしの後ろにいて、あたしの手首はおじさんに握られていて、首におじさんの腕が回されていて。
 この状況って。
「動くな! 動くなよ、そこの兄ちゃん……!」
 鼓動が再加速した。
 うわああああ、あたし、いつの間にか人質になってる! って叫びたいけど、息が切れているのも合わさって、声が出ない!
 こっちへ向かって駆け寄ろうとしていた高橋は、少し眉をひそめて、踏み出していた足を下げた。
 それを確かめて、おじさんは一歩後退りする。掴まれているあたしももちろん一緒に。息が荒くなっていく。頭の上から、おじさんの、押し殺したような声が聞こえた。
「じっとしてろ、そうすればこの娘は返してやる」
 どうしようどうしよう、心臓が飛び出そうだ。怖い、怖いってば、そして同時に、圧倒的足手まといになってる自分に血の気が引く。もう、どうしようって言葉しか出ない。喉で何かが詰まっちゃったみたいに、声が出ない、苦しい、後悔が恐怖になって襲ってくる、助けてって、ただの中学生であるあたしの頭がそれで埋め尽くされる。
 思わず助けを求めて顔を上げると、高橋はおじさんの方をじっと見ていた。無表情な高橋の口が開く。
「のばらは俺の娘ではないんだが」
「そういう意味じゃないからぁぁぁ!!」
 あ、声が出た。って、喜んでる場合じゃない! 何を言うのかと思ったら、この状況でよくそれを口に出せたな高橋! しかも、真顔の中にも心底不思議そうな表情をちらつかせて!
 でも、いつも通りの高橋の姿を見て、少しだけ頭が冷えた。確かに首に手は回されてるけど、おじさんは別に凶器を持ってるわけでもなんでもない。もちろん人質になってることには変わらないけれど、パニックからは脱した。高橋に感謝……していいのかなあ。
「それに俺はお前の兄でもないし……」
「う、うるさい、黙れ!」
 あたしと対照的に、裏返った声が頭の上から聞こえてきた。相当、余裕がなくなっているらしい。大きな声で、思わず肩が縮まってしまう。
 高橋は、おじさんの言葉の通り、口を閉じたままこっちを見て立っている。さっきの、娘がどうのこうのと違って、「うるさい、黙れ」に特に疑問点がなかったから黙ってるだけかもしれないけど。
「そうだ、動くなよ……」
 高橋、あたし、背後。三点へ忙しなく視線を動かしながら、おじさんはあたしを連れて一歩一歩後ろへ下がっていく。曲がり角まで下がったら、走り出すつもりなんだろうか。高橋の方を見ると、たぶん高橋もそう予想しているんだろう、黙って立っているけれどおじさんのタイミングをうかがっている。でも、いくらタイミングよくスタートを切ったって、距離が開いてちゃ逃げられてしまう。……よし。
 せめてここで、少しでも挽回するんだ……! 焦りに似た気持ちが、あたしの身体を動かす。
 あたしは、おじさんに握られていない方の拳を、ぎゅっと握った。ちょうど、あたしの肘の位置が、おじさんのお腹だ。
 そっと肘を曲げる。おじさんはかなり緊張しているようで、きょろきょろしているから、あたしのそんな動きには気付かない。一応高橋に目配せをしておく。すでに高橋はあたしの曲げた肘に気付いていたらしく、小さく頷いて口を動かした。さすが神の使い、って言いやがった気がする。五百円、取り返しても渡してやるもんか。
 もうすぐ、さっき曲がったT字路だ。
 おじさんが走り出す前、かつ気付かれない一瞬の隙をついて、この肘を叩き込む。
 おじさんが、高橋を見て、あたしを見て、――背後を見た! あたしは思いっきり腕を前に振って勢いをつける。そしてそのまま、おじさんのお腹へ肘を……。
「あ、ちょっと待った」
 唐突に高橋が声を上げた。え、ちょっ、この期に及んで!? 待てとか言われても、止められないってば!
「な、何だ……うげっ」
 そしておじさんのお腹に、あたしの肘がクリーンヒット。高橋の声に驚いて少し狙いがずれたんだけど、それがまたちょうどいいところに決まったような感触だった。あたしの全力を込めた肘鉄の勢いのまま、あたしとおじさんは後ろへ倒れていく。首に回されていた腕の力が緩まる。よし、とあたしは体勢を反転させる。おじさんの方に手をあて、そのまま地面へ叩きつけ――。
 ……ない。
 地面がない。
 あたしが今の今まで立っていた、砂利道が、ない。
「は!?」
 いやいやいや、何、何これ!? なんで地面がなくて、あたしたちの周りに、真っ黒な穴が開いてんの!?
 意味を理解とか、そんなことがこの状況でできるはずもなく。
 世界がスローモーションのように見えたのもつかの間。
 あたしたちは。
「あ」
 あ。
 あ。
 あ。
 落ちる。
 落ちる感覚が身体から上へ零れる。
 あああああ、と声が口から飛んでいく。ああなんだか意識が黒く塗りつぶされて、遠くに見えるあれが走馬灯……。
「ぎゃっ」
「うぐっ」
 背中に、柔らかい衝撃を感じた。直後、下から呻き声。
 生まれてからの思い出を辿ってそろそろ幼稚園を卒園しそうだったあたしの頭も、さすがにすぐ反応して。あたしは下にいる何か――状況的に間違いなくおじさん、から降りた。
 あたしの下にいたのは、案の定、ひったくりおじさんだった。おじさんのお腹によって、着地の衝撃が吸収されたらしい。おじさんはあたしが降りた直後から、背中を丸め、お腹を押さえてぴくぴくと震え始めた。なんだか、すごく痛そうだ。痛そうって言葉で表してしまっていいのかってくらい。
「お、おじさーん。大丈夫ですか?」
 恐る恐る聞いてみると、おじさんは震えながら右手を小さく挙げた。あー、ですよね、痛いですよね。……あたしの肘打ち、そしてあたしの下敷きになったことが原因だっただろうから、今さらながら罪悪感が生まれた。まあ、おじさんもひったくりをしていたので、これでチャラということでいいよね。
 そんなことよりも。あたしは立ち上がり、辺りを見回す。
 あたしたちがいるのは、塀に囲まれた細い路地だった。足元には砂利が敷かれていて、背後にはT字路が見えて、……これって、さっきまであたしたちがいた場所だ。
 あ、あれ? あたしは右手で頭を押さえる。あたしは今、確かに落ちた、はずだ。落下する感覚がまだ身体に残っている。高いところから落ちた。それにしては、おじさんのお腹に吸収されたとしても衝撃が少なすぎるとも思うけれど、とにかく落ちた、なのにあたしがいるのはさっきまでと同じ場所だった。
 どういうことなんだろう。変わらない景色を見ていると、なんだか、落下した感覚も、落ちる直前に見た穴も、気のせいだったみたいに思えてくる。落下感があったのは一瞬のことだったし、落ちたにしてはあたしの身体に痛むところはないし、おじさんもお腹を押さえて呻いてるだけだし。……あたしは本当にどこも痛くないので、もしかしたらおじさんが呻いているのは、落下は関係なくあたしの肘のせいだけかもしれない。まあ、おじさんもひったくりしたし、チャラでいいよね。
 首を傾げながら、あたしは前を見る。
「ねえ高橋、さっきの……」
 いない。
 「ここ」にいたはずの高橋がいない。あたしは辺りを見回して、それでも姿はない。
「……高橋?」
 もう一度、そっと呼ぶ。返事もない。
「高橋ー……」
 あたしの声は、響かずに消えていった。
 静か。静かだ。
 鼓動が、早くなっていく。
 何かがおかしい。
 あまりにも静かすぎる。何も、音が、聞こえてこない。ここは梨川駅前の通りにほど近い小道のはずだ。走る車の音。周りの家から聞こえる家事の音、話し声。店員さんの呼び声。聞こえるはずのそれらが、何も聞こえない。
 ここは一体、何なの。
 突然地面がなくなって。あたしたちは落ちて。そしてあたしは今さっきまでいたはずの「ここ」に同じように立っている。けれどここは、何かが、おかしい。いるはずの人がいない。聞こえるはずのものが聞こえない。
 ここは、一体、何なの……!!
 寒気に背筋が震えた。あれだけ走って、冬だというのに暑かったのに。
「おじさんっ……」
 あたしはおじさんの元へ駆け寄った。おじさんは、相変わらずお腹を押さえていた。可哀想なほどのその様子を見て、別の不安が頭をよぎる。……おじさんもひったくりしたし、チャラ、……だよね……?