第三章 ファンシー・フライヤーズ・フォール
1.恋の話をしよう−3
「伊吹ミズホと申します。マヤ、……ええと……花折の姉で、えと、先日まで仕事の都合で関東にて一人……暮らし、をしていたのですが、つい最近、光原市に戻り、……えー、またここで暮らす、ことになりましたよろしくお願いしますね!」
この間、手元のメモ(カンペ)を見ること五回。
たどたどしくメモを読み上げていたのが、最後はとにかく一刻も早くゴールしたかったらしく逆にものすごい速さで急き込むように言い、「言い切った!」という輝く笑顔で、彼女――ミズホさんは顔を上げた。
エスカレーター脇の休憩用ベンチ。あたし、ミズホさん、そしてぐったりとした伊吹さんの順で横に並び、あたしはミズホさんと向かい合うように身体を向けて座っている。
カンペを片手に持ち替え、もう片方の手でカバンから名刺を取り出し、いそいそとあたしに差し出すミズホさん。……名刺には、「水谷(みずたに)麻衣子(まいこ)」と書かれている。
「……あの、ミズホさん、名刺、」
「えっ? ……あっ、きゃあああ、やっちゃった!!」
戸惑いつつも指摘してみると、「ミズホさん」は叫び、わたわたと名刺をカバンに仕舞う。大慌てでカバンを探り直し、たっぷり三十秒後、「見つけた!」というやはり輝く笑顔で、彼女は名刺を再びあたしに差し出した。――「伊吹瑞穂」。
「瑞穂さん」の笑顔に押されて名刺を受け取る。
……そしてきらきらの表情であたしの反応を待つ彼女には申し訳ないんだけど。
あたしは、言う。
「……えっと、水谷麻衣子さん」
「はい! ……じゃない、わ、わたし、伊吹瑞穂だよ!!」
「声裏返ってます、麻衣子さん」
「えっ、そ、そんなことないよ!!」
喉をこすり、髪の毛を撫でつけ、姿勢を正す「伊吹瑞穂」――水谷麻衣子さん。彼女の向こう、崩れるようにベンチに座っていた伊吹さんが、うう、とうめきながら身を起こした。やがて伊吹さんはため息を吐き、麻衣子さんの肩をぽんと叩く。
「……うんお姉ちゃん、お疲れ様。お姉ちゃんは頑張った。期待した私が馬鹿だった」
「えっ、マヤコちゃんは馬鹿じゃないよ、お姉ちゃんの自慢の妹よ!」
「……そうだねお姉ちゃん」
もう一つ長いため息を吐き。伊吹さんが、あたしに向かって口を開いた。
「こちら、私の姉の水谷麻衣子。ただし、普段は伊吹瑞穂って名乗ってるからそう呼んで。っていうのは」
そう前置きして。
「エクソシストの仕事で様々なところに潜入する都合上、偽名を使うことがよくあるの。『伊吹瑞穂』も『伊吹花折』もその名前の一つ」
伊吹花折さん――「水谷マヤコさん」は、あっさりと認めた。
伊吹さんは、本当なら高校に通っている年齢だけど、守本中学校に隠された「最終兵器」を探すために中学生として学校に潜入していた。だから年齢を誤魔化しているってことは今までにも知っていたけれど、今言ったように名前だとか、他にも住所や生年月日、連絡先に家族構成……、きっといろんなことを偽っているんだろう。三年前に本当に中学生として過ごしていた「水谷マヤコ」のままじゃ、きっといろいろと不都合があるから。
「仕事中はもちろんだけど、思わぬところから綻びが生じないように、少なくともある任務に就いている間は一般生活においてもその名前を使っているから。間違えても水谷マヤコなんて呼ばないでよね……うちの馬鹿姉のようにッ」
「ご、ごめんねマヤ……花折ちゃんー。せっかく自己紹介用の原稿も作ってくれたのに……」
麻衣子さん、いや瑞穂さん――伊吹さんにそう呼べって言われたんだからその名前を呼ぼう――が伊吹さんに抱きつく。
どうやら、少なくともパッと見はしっかり者な伊吹さんとは対照的に、瑞穂さんは相当の天然さんらしい。
「ああもう、こんなところで抱き着かないでよ恥ずかしいッ!」
鬱陶しがる伊吹さんに乱暴に頭を叩かれていた瑞穂さんは、少し涙目になりながら顔を上げた。
「で、でもマヤ……、花折ちゃん」
「何よ」
瑞穂さんの視線は、そのままあたしへ移る。
「のばらちゃん、だったかしら、そこのお友達。花折ちゃん、今、のばらちゃんへの説明の中で当たり前のように『エクソシスト』って言ってたけど、それは大丈夫なの……?」
「あー……」
あたしを見、少し期待するような表情をしている瑞穂さんを見て、伊吹さんが面倒くさそうに答える。
「……いろいろあって、原さんは、私がエクソシストだってこと知ってるのよ。……だからってお姉ちゃんが原さんの前で本名ばらしたことが不問になるわけじゃないからねッ」
瑞穂さんがひゃー、と肩をすくめ目を瞑った。
「ったくもう、仕方ないんだから……」
「あっ、でもでも、花折ちゃん」
ぶつくさ文句を言う伊吹さんを、ふと何かに思い当たったようにぱっと目を開けた瑞穂さんが遮る。
「何よ」
「のばらちゃんは、エクソシストではないのよね? エクソシストが偽名を使ってる云々、ってことは知らなかったわけだし……」
首を傾げた瑞穂さんの視線が、あたしへ移る。
「あ、はい。あたしは」
瑞穂さんの疑問に答えようとして。
あたしの言葉は一度止まった。ええと、あたしは、
「のばら」
不意に後ろから声がして。思考が途切れた。思わず振り返り見上げた先に、……あ。高橋が立っていた。
そうだ。伊吹さんによる事情説明が始まるか始まらないかくらいのときに、たぶん「マヤコ」は伊吹さんの本名なんだってことに気付いたんだろう、「ああ、そういえばそうか」と勝手に納得して、買い物の続きをしてくるって言ってどこかへ行ってしまっていたんだった。
「待たせた。買い終わったぞ」
「……え、あ、うん。……って!」
はっと我に帰る。ほんとだ、大きなビニール袋を両手に提げてる。ってことは。
「買い終わったって、高橋、……きちんと買えたの?」
二十二歳を相手に失礼な質問かもしれないけど、思わず聞いてしまう。すると高橋は表情を変えずに、ポケットから財布を出し、その中からレシートを引っ張り出してあたしに差し出した。
ざっと上から見て、下から見て、もう一度上から見て。掃除機、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、パイプベッド、マットレス、布団一式、物干し竿、ローテーブル、ラグ、ハンガー、ごみ箱、カラーボックス、フライパンと鍋の四点セット、食器七点セット。思わず三回確かめたけど、
「……買えてる……」
つっこみどころのない、まともな買い物をしてる……。
「一人暮らしを始める人向けのコーナーがあったからな。店員に聞いて適当なものを選んだ。大きな品物は配送してもらうことになった」
レシートには、配送票の控えがホッチキスで留めてあった。
配送予定日は明日の夕方。その下に、やっぱりやたら綺麗な字で住所が書かれている。「光原市守本一丁目1-5 ブラン守本408号室」。守本一丁目って、あぁあの辺りかなあ、と思い浮かべる。その下には「高橋ノディ」と、始業式で言っていた名前が記されていた。
「あの、高橋、さん? っていうの?」
様子を覗っていた瑞穂さんがそう言い、高橋とあたし、そして伊吹さんを順に見る。高橋が途中でいなくなってしまったもんだから、二人は挨拶していなかったのだ。まったく。
伊吹さんがもう何度目かのため息をついて、高橋を指差した。
「この人はエクソシスト。お姉ちゃん、仕事で会ったことはない? 高橋ノディっていうんだけど」
「……ノディ」
瑞穂さんは高橋を見て、その名前を繰り返した。一瞬、思い当たる節を探しているのか笑みが消えたけれど。一拍置いて、「うーん」と困ったような声とともに表情を崩し、右手を差し出す。
「これまでにお会いしたことはない気がするわ。花折の姉の、伊吹瑞穂です。よろしくお願いしますね」
「あぁ、よろしく」
高橋はあっさりと返し、軽く握手をして、手が離れた。
その様子を見終わって、あたしはなんとなく、もう一度レシートに視線を落とした。
高橋。高橋ノディ。
こうして改めて文字で見ると、なんだかとても奇妙な感じがした。すでに呼び慣れて馴染んでいるのに、それでも目の前のこの人にはどこか合わないような。掴みどころがなくて、どこか遠くにあるような。
……。
……「伊吹花折」が偽名なように。
……「高橋ノディ」も、そうなんだろうか。
今更だけど、こいつは一体、何者なんだろう。
って、空から高橋が降ってきて出会ったときにも当然思ったことなんだけど、改めてふと思う。何者なんだろう。本当は、……どんな人なんだろう。この間の音楽の授業で明日香ちゃんが年齢を聞いたら二十二歳って答えていたから、へえそうなんだなあって素直に思っていたけれど、伊吹さんが年齢詐称しているように、それも本当なんだかどうなんだかなあ……。
「……」
「ねえ高橋、さっき伊吹さんから、エクソシストは大抵偽名を使ってるって聞いたんだけど、高橋もそうなの?」。
尋ねる言葉はしっかり文章になって頭の中に浮かんだんだけれど、あたしはそれを、どうしてだろう、いつものようには口に出せなかった。……聞いていいのかな。いや悩むまでもなくいいだろー、相手は高橋なんだし、……。
あたしの視界に、不意に大きな手が割り込んだ。高橋があたしの手からレシートを取ったのだ。
「まあそういうわけで、のばら、おかげで無事に光原市で生活をする準備ができた。ありがとう、待たせたな」
「……遅いー」
口を尖らせてみせて言った、その言葉は、出てきた。でもなんとなく、その後に彼の名前は呼ばなかった。高橋が腕時計に目をやる。
「疲れたのか? そうだな、長い時間付き合ってもらったし、遅くなったが昼ご飯を食べるか」
「やったー!」
この言葉は、もっと簡単に出てきた。
そう、お腹が空いてたんだ! 空きすぎて、空いているかどうかが分からなくなってきてたし!
「せっかくだから、伊吹たちも一緒に」
「げっ、い、いいわよ私たち家でご飯」
反射的に伊吹さんが断るけれど、
「わあ、じゃあ一緒に行きたいなあ、ねっ花折ちゃん」
「……」
瑞穂さんに満面の笑みを投げかけられて、ぐったりと壁にもたれかかった。ま、まあ、人数が多い方がご飯は楽しいよね!
「ねえ、何食べる? 何食べる!?」
「何だかいきなり元気になったな。……そうだな、しかし疲れていると言っていたのだから」
……あれ。
疲れてるとか、元気になるとか、このキーワードは今までの経験からして、牛乳の流れなんじゃ……。