第三章 ファンシー・フライヤーズ・フォール
1.恋の話をしよう−4
 駅前通りから少し入ったところにある、小さな店。
 あたしと高橋、そして一緒にご飯を食べに行くことになった伊吹さん姉妹は、うどん屋さんの前にいた。
「牛乳じゃないのかよッ!!」
 あれだけ牛乳をプッシュしてたくせに!?
「牛乳が飲みたかったのか? ……それにしても、のばらの方から牛乳を飲みたいと言ってくる日が来るとは思わなかった。いや、いいことだ。好き嫌いはよくないからな」
「飲みたいとは言ってないから、牛乳じゃないのって言っただけだから!!」
「ええと、よく分からないのだけれど、のばらちゃんは牛乳が嫌いなの?」
「いやそういうわけじゃないです、高橋が変な勧め方をするから断ってただけで!」
「しかしうどんは消化にいいらしいぞ」
「確かにそうだけれども話繋がってねェェェェェ!!」
「まあ、牛乳は後でコンビニで買ってやるから。とりあえず入るぞ」
 そう言って、高橋は引き戸を開け、さっさとうどん屋さんに入ってしまった。牛乳は買ってくれなくていいけど、あたしも慌てて追う。
「いらっしゃいませー……、あれっ」
 店に入ると同時、迎えてくれた男の店員さんの声は、少し驚いたように高くなった。
「ノディじゃん!」
 そして、高橋の名前を呼ぶ。
 声のした方を見てみると、カウンターの中に、ラテンヨーロッパ系っぽい男の人が立っていた。少し色の濃い焼けた肌に、癖のある短い黒髪。歳は高橋と同じくらいだろうか。驚いたような表情を残しながらも優しい垂れ目を細めて、高橋に向かって手を振っている。高橋は軽く手を挙げてそれに応えた。店員さんは、高橋の後ろにいるあたしに目を移す。
「お嬢さんもいらっしゃい! ……っと、その後ろは瑞穂さんに、ってことは花折ちゃん? 久しぶりだねー!」
「あらー、うどん屋さんってジルくんの店だったの」
「お久しぶりです」
 瑞穂さんは親しげに応え、伊吹さんは澄ました顔で言う。あたしはわたわたと会釈して、高橋の袖を引っ張る。
「高橋たちの知り合いの人なの?」
「ああ」
 小声で尋ねると、傍にあった四人掛けの椅子に荷物をもたれかけさせながら、高橋が答える。
「知り合いってことは」
「名前はジル=ノウェア、うどん屋兼エクソシスト。早い話が仕事仲間だな」
 ……うどん屋兼、ってとこにはつっこむべきなのかどうなのか。なぜその二つを兼ねた。
「よろしくねー」
 でもその前に、そのジルさんがあたしに向かってにこにこ笑いながら手を振ってくるから、あたしは慌ててお辞儀をした。
「は、原のばらです、えーと」
 名前を言って、自分のことを説明しようとして。
 ……あれ、あたしって何なんだろう?
 さっきも瑞穂さんに自己紹介をしようとして詰まったことを思い出した。そうだ、あたしって、何なんだろう。魔物退治に付き合わされてはいたけれど、ただの守本中学校二年生であって、何も兼ねてない。
「あたし、高橋……先生に、中学校で音楽を習ってるんですけど」
 とりあえず、確実に言えることで説明しておく。……なんだか、この説明じゃ、ただの先生と生徒なんだけど……。別に、だからなんだってわけじゃないけどさあ。
 ふと視線を感じて振り返ると、伊吹さんと目が合った。伊吹さんは特に何も言わずに、すっと視線がずれる。うわ、自己紹介なんかで戸惑ってるところを見られてしまった。なんだか恥ずかしい。
「ああそういえば、ノディは今、中学校の先生をやってるんだっけ。ええと、のばらさん、ね。よろしくー。ああ、お水持ってくから、適当に掛けといて」
「どうも」
 そう返事した高橋は、すでに椅子に座ってメニューを見ていた。早いなお前。
 棚からコップを取り出し始めたジルさんにもう一度会釈して、あたしはその隣に座った。あたしたちの向かいの席に、伊吹さんと瑞穂さんが着く。
 お店の中にいるのはあたしたちだけだった。置かれているガスストーブから暖かさは伝わるけれど、窓際なのでひんやりする。
 高橋が、見ていたメニューを机の上に置いて、あたしたち三人の方へ向けてくれた。ラミネート加工されたシンプルなメニュー。きつねうどん、天ぷらうどん、山菜うどんに山かけうどん、カレー、しっぽく、肉、衣笠、卵とじ、餅、ざる、釜揚げ、……エクソシストを兼ねているにもかかわらずやたらとバリエーションが豊富だ。
「それにしても、伊吹姉妹にノディって、初めて見た組み合わせなんだけど」
 カウンターの向こうから、細かい氷の入った水を注ぐ音。
「どういう経緯?」
「つい先日、諸々の事情で、俺と伊吹が一緒に仕事をした。その仕事に関連して、俺とのばらが知り合っていて。そして今日、俺とのばらがそこの家具家電店で買い物をしていたところ、伊吹姉妹に出くわして、そういえばジルの店が近いことを思い出して、ちょうどお昼時だったので立ち寄ってみた」
「組み合いたくて組み合ったわけじゃないわよ、まったく」
 ふん、と伊吹さんがそっぽを向く。
「あはは、花折ちゃんは相変わらずだねえ」
「相変わらずで結構です」
「じゃあ伊吹はうどんを食べないのか」
「食べるわよ!」
 机の上のメニューを自分の方に引き寄せる伊吹さんを見て、ジルさんがまた笑った。
 そのメニューを横からうきうきと覗き見ている瑞穂さんに、あたしは尋ねる。
「『初めて見る組み合わせ』……そういえば、瑞穂さんと高橋は初対面だってさっき言ってましたよね」
「そうねー。エクソシストはいっぱいいるから、全員を知っているわけじゃないし。同じ地区を担当しているとか、同じ任務についているとかでない限り、知らない人も多いのよね」
「伊吹さんも?」
「私は数度、一緒に仕事をしたことがあるけど、こいつのことあんまり好きじゃないし」
「ちょ、当人を目の前に……でも、ジルさんとは、みんなわりと知り合いなんだね」
「わりと有名人だから」
「有名人?」
 聞き返したときに、ちょうどジルさんの声が被さった。
「っていうかさー、ノディ、『高橋』って何?」
「ん?」
 メニューの飲み物の辺りを見ていた高橋が顔を上げる。思わずあたしも顔を上げて、でもその会話に参加するのはちょっと気兼ねして、ちらっと高橋の表情を盗み見た。相変わらず、何を考えてるのか分からない表情をしている。
「ああ。日本で仕事をするのだから、カモフラージュ代わりに日本の名字をつけてみたんだが」
 ……何を考えてるのか分からないっていうか、何も考えてないんじゃないかと思えてきた。まず、カモフラージュする気なら電柱に登るのをやめろよ!
 ああ、でも、そういえば。あたしは、高橋に初めて出会って名乗られた時のことを思い出す。――「本名は事情により言えないが、まあ、高橋とでも呼んでおいてくれ」、と高橋は言ったのだ。そのときあたしは、なんてミスマッチな名前を名乗るんだろうと思ってたはずなのに、何度も呼ぶうちに忘れてしまっていた。そうだった。少なくとも、名字は、本名じゃないんだ。
 じゃあ本名って何なんだろう? ジルさんは高橋を見てノディって呼んでいた。久しぶりに会ってそう呼んだってことは、「ノディ」は本名だったりするのかな。
 本当の名前は何なんだろう。
 この人、本当はどんな人なんだろう。
 ジルさんにノディと呼ばれる高橋を見ると、なんだかあたしの胸にある奇妙な感じが、余計にそわそわして、何でもいいから何かを尋ねたい、そんな気になる。
 お盆に四つのコップを載せて、ジルさんがカウンターの奥からこちらにやってきた。表面に露の浮かぶコップが、優しく机の上に置かれる。つう、と一筋、雫が垂れた。
「さて、ご注文はお決まりですか?」
 ジルさんがポケットから注文書を取り出す。
「わたしはー、山かけでお願いします!」
「私、天ぷらでお願いします」
「俺はきつねうどんで。のばらは?」
 慌ててメニューを見直すあたしの頭の上を瑞穂さんと伊吹さんの声が飛び交い、高橋の声が降ってくる。急ぎすぎてメニューの内容が全然頭に入ってこなくて、とりあえず目に入ったものを読み上げる。
「え、えーと、あたしは山かけ……」
「はーい、じゃあ作るから待っててねー」
 緑の鉛筆でさらさらと用紙に注文内容が書かれる。ジルさんはにこにこしながら、カウンターの中へ戻っていった。ひねった蛇口から水が勢いよく流れる音、コンロから出た火の音、冷蔵庫を開けて取り出した何かを包丁で切る音、その合間に鼻歌が聞こえる。そのころになってやっと、ああそういえば瑞穂さんが山かけうどんを先に注文してたんだから、「あたしは」じゃなくて「あたしも」だったなあと、自分の発言を思い返す。
 うどんの待ち時間。瑞穂さんはポケットから携帯電話を取り出して開き、伊吹さんはそれをちらっと見てすぐに目を逸らし、窓の方を見ながら髪を手で梳かす。高橋はカウンターの方をぼんやりと見ていて、あたしはそれをそっと盗み見た。
 聞こうかな。……聞いても、いいかな。
 相手は高橋なのに、無性に不安になって、静かな時間に焦ってしまう。
 さっき尋ねそびれてしまった分もあってなんか悔しかったので、あたしは少し小さな声で高橋を呼んだ。
「ねえ、高橋」
「何だ?」
 高橋の視線があたしの方を向く。一瞬、この期に及んで、どうしようかと迷いが浮かんで、でも呼び掛けてしまったものはもう仕方がないからあたしは続きを言った。
「じゃあさ、『ノディ』の部分は本名なの?」
 どことなくぼんやりとしていた表情が、少しだけ驚いたように変わった。でもそれもちょっとの間のことで、一拍置いて、高橋はすぐに元の表情に戻る。
「ノディ=エンティ」
 外国人っぽい発音で、そう言った。まあ外国人なんだけど。
 あたしは英語のリスニングは苦手だけど、多分聞きとったその名前で合ってると思う。
 へえ、ノディ=エンティっていうんだ、って言おうとして、その前に高橋が続けて口を開けた。
「……というのが俺の、そうだな、ここ五年ほどずっと使っている仕事上での名前だ」
「仕事上?」
 あたしは高橋の言葉をそのまま繰り返す。……ってことは。
「さっき伊吹たちから説明を聞いただろうが、つまりは偽名だ。仕事をする上では、偽名の方が都合がいいからな」
 あたしはそれを聞いて、なんだ、って思った。
 なんだ。あたしの知る「高橋」は日本に来て適当につけた名前だけど、ジルさんの呼ぶ「ノディ」も本当の名前じゃないんだ。同じようなものだった、と心が落ち着いて、だけど胸のもっと奥のところにあるものがすとんと落ちたように感じた。あたしの手元には、結局偽物の名前だけが残っていて、高橋の「本当」についてのことは、なくなってしまった。なんだ。全然分からないじゃん。
 「なんだ」ってなんだよ、と頭の中であたしは冷静に笑って言う。例えば「えー、じゃあ本名って何なの? 教えてよー」って軽く尋ねてみようかって、そういう言葉も頭の中にはきちんと用意できている。だけどその言葉は、やっぱりあたしの口からは出てこない。なんだろう。ジルさんなら、もしかしてその本名も知ってるんだろうか。
「のばら?」
「え?」
 名前を呼ばれて、はっとした。黙り込んでいて相槌を打つのを忘れていたことに気付く。
 何か言わなきゃと思って、でも何も出てこなくて、あたしは言葉を探して動けなくなってしまう。何か、……。
「はーい、おまたせー!」
 そのとき、元気な明るい声とともに、カウンター奥から再びジルさんが現れた。二つずつうどんの載ったお盆を二枚、両手に持って。テーブルのそばまでいそいそとやってくる
「えーっと、これが天ぷらうどんだから花折ちゃん。こっちはきつねでノディ。山かけは瑞穂さんとのばらちゃんで合ってるよね?」
「あっ、ありがとうございます!」
 暖かい室内でもほかほかと湯気の舞ううどんが、目の前に置かれる。
「ジルくんありがとうー! じゃあ、いただきますっ」
 うどんを前に、嬉しそうに瑞穂さんが手を合わせ、あたしたちもそれに続いて箸を割る。四人分の、暖かいうどんを啜る音。……ちょっと助かった、とナイスタイミングでうどんを持ってきてくれたジルさんをちらりと見る。ジルさんは鼻歌を歌いながら、カウンターで調理器具を洗っていた。