第三章 ファンシー・フライヤーズ・フォール
1.恋の話をしよう−1
冬の土曜日、昼下がり。
陸上部の休日練習で火照った身体も、この寒い曇り空の下で一気に冷える。
あー、お腹空いた! 早く帰って、温かいラーメンを食べて、コタツにダイブしたいなあ。
そんな平和な土曜日を過ごすためにも、できれば、前方の電信柱の上に立つ人影は無視したいんだけどなあ……。
あたしの願いもむなしく、「電信柱の上に立つ人影」が、あたしを見下ろして口を開けた。ここからでもはっきり誰だか分かる、やたら目立つ金髪碧眼の男性が。
「あ、のばらじゃないか」
……平和な休日に、どうしてお前は電信柱の上に立ってんだよ高橋――ッ!!
まず断っておきたいんだけど、「電信柱の上に立つ」というのは比喩とかそういう類のものではない。そんな比喩があってたまるか。彼は本当に電信柱の上に立っているのだ。
そんな現実があってたまるか、とも言いたいんだけど、残念ながらあたしはそれを受け入れざるを得ない。
奴は、自称「エクソシスト」である。
エクソシスト。カトリック教会における位階の一つで、悪魔払いの儀式を行う人間。……なんだけど、彼の言う「エクソシスト」は、本来の意味とは少し違う。
あたしたちがいるこの世界のそばには、ふとした拍子で繋がる「裏の世界」が存在する。「裏」には、魑魅魍魎さんたち――通称「魔物」が棲んでいて、時折こちらの世界へ迷い込んでくる。それらを「裏」へと送り返す仕事をしているのが、彼ら「エクソシスト」。ひょいひょいと空を飛んでみたり、手からなんだかよく分からない白い光を放って世界の境界に干渉してみたりしながら魔物退治をする、その仕事を分かりやすく表す言葉として、彼らはエクソシストと名乗っているのだ。エクソシスト。まあ日本語で言うなら、「ファンタジー寄りなちょっと変わった人」って感じで大丈夫だろう。
ごく一般的な女子中学生であるはずのあたしが、そんな「ファンタジー寄りなちょっと変わった人」高橋と出会ったのは、一週間前、冬休み中のこと。
正月三が日、所属する陸上部の地域ボランティアとして、あたしは巫女服を着て神社のお手伝いをしていた。それをどこからか見ていたらしい彼は、あたしのことを本物の「神の使い」だと勘違いしてしまったらしい。強引に魔物退治に引きずり込まれ、連れ回され。さらにはあたしが通う中学校に対魔物用の「最終兵器」が隠されているとかで潜入のために音楽教師として赴任して、今に至る。
そう、あたしはこの変人に、新年早々からずっと振り回されているのだ。どうなってるんだ、ボランティアの合間に引いたおみくじは中吉だったよ!? ああもうそんなことはどうでもいい、とにかくあの変人を今はなんとかしないと!
「ちょ、ちょっと、どうしてそんなところに立ってんのよ! 音楽教師の次は工事のお兄さんでも始めたの!?」
「いや、のばらのことを探していたんだ。高いところだとよく見えて探しやすいと思って登ったんだが、風が強くて、コートを羽織っているだけだと寒いな。今度からは手袋と帽子と、マフラーも着用することにしようと思う」
「防寒具の前に常識を身に着けて、そもそも電信柱に登る選択肢がおかしいって気付けェェェェ!!」
あたし以外の人間に見つかったらどうするつもりだったんだ! 早く降りろ、このエクソシスト!
「しかしのばら。このグローバル化、そして情報化した社会を生き抜くには、常識にとらわれずに新しい視点から物事を見つめることが大切だぞ」
「エクソシストの台詞とは思えませんが!?」
「そうか? まあしかし、今は言い争っている場合じゃない」
「どの口が言うっ……」
あたしが最後まで言う前に、高橋が電信柱を軽く蹴った。跳んだ身体はすぐに重力に従って落ち始める。ただし、ゆっくり、ふんわりと。十数メートルの高さから飛び降りたとは思えないほどの小さな着地音を申し訳程度に立てて、あたしの目の前に降り立った。広がったコートが一拍遅れて収まる。その様子は、今の今まで必死で突っ込んでいたことを忘れかけてしまうくらい、あまりに突然、現実離れしていた。
あたしをぽかんとそれを見ていたのだけど、地面に足をつけて随分と近くなった高橋にじっと見つめられていることに気付いて、我に返った。
いつも通り無表情の高橋が、口を開く。
しまった。完全に呆気にとられていたけれど、これは。
……嫌な予感がする。
「さてのばら。実は頼みたいことがあるんだが」
……嫌な予感は、すごく嫌な予感になった。
これは、魔物退治に連れ回される流れじゃないだろうか。
いやいや困る、それは困る! ただでさえ疲れる休日の部活練習。今日はいつものメニューに加えてシャトルランを二回もした。あたしは疲れている、疲れているんだってば!
圧倒的回転数で脳が言い訳を考え始めるも、それより早く高橋が再び口を開ける。無情にも、あたしの耳は彼の声を拾う。ああ、くそ――……、
「ここの辺りで、家具および家電を扱っている大きな店があれば、教えてもらえないだろうか」
「……はい?」
家具と家電?
「……実は昨日、光原市内のアパートに入居したのだが」
高橋が切符の自動販売機に百円玉を三枚入れて、「大人二人」を選択し、百四十円のボタンを押す。じゃらじゃら。出てきたお釣りの二十円を財布に戻して、二枚出てきた切符を引っこ抜き、少しずらしてあたしに差し出す。上の切符を受け取ると、高橋は改札へと歩き始めた。
土曜のお昼。あたしが通う光原市立守本中学校の最寄りのJR守本駅。ローカル私鉄の光原電鉄守本駅と接続するこの駅は、平日の朝や夕方には学生やサラリーマンでごった返すけれど、今は落ち着いている。
歩くのが早い高橋を追いかけて、続いて切符を自動改札機に通す。あたしの姿を確認してから、高橋が続きを言う。
「音楽教師として着任してしまったので、少なくとも半年ほどここに滞在しなくてはならなくなったからな。今まではホテル暮らしをしていたのだが、さすがに半年となると宿泊費も馬鹿にならないということで総務部から連絡があり、昨日の学校業務が終わった後、用意されたアパートにさっそく入居したんだ」
「エクソシストにもそういう部署があるんだ……」
「世界を股に掛けるとは、飛行機代やら宿泊費やらがかかるということだからな」
守本駅は、改札とホームを繋ぐ通路が地下にある。コンクリートの階段をとんとんとん、と降りていく。
「さて、大家からアパートの鍵を受け取り、いくつかの説明を聞いて、ほっと腰を下ろしたところまではよかったのだが。落ち着いて辺りを見回すと、家具や家電が何もないんだ」
「そうだろうな!?」
いきなり入居したんだから、そりゃあ何もないよね!
「すでに時刻は夜九時を回っていた。しかも大家からブレーカーの入れ方を聞き忘れたので、電気も使えない。仕方がないので近くのコンビニで食パンを買って、何もないフローリングの部屋の端っこの方に座って食べた。そしてそのまま寝た」
何、そのシュールな光景! しかも高橋のことだから、それを無表情でやってるんだろう。暗い中無表情で、弁当を食い、ぽつんと寝ている金髪碧眼成人男性。シュールすぎる。
「寒いうえに背中も痛いし、なぜだろうか、悲しい気持ちになった」
「そりゃそうだよ!」
「カーテンもなかったので、街明かりが窓からよく見えた。時間が経つごとにそれが少しずつ消えていく様子に、無性に心が締めつけられたのだが、これがいわゆる日本の侘び寂びというものなんだろうか」
「絶対違うと断言させて、頼むから!」
高橋は「日本語は難しいな」と言いながら首をひねった。
「まあ、そういう経緯があって、最低限の家具および家電を買わなくてはならないなと思ったんだが、そのための店の場所を調べる手段がなかった。携帯電話はすでにバッテリーが切れていて、電気が使えないため充電もできない。新聞もまだ購読していないから、新聞広告もない。どうしようもなくなって非常に困っていたのだが、もしかすると神の使いならそういうことにも詳しいかなと、ふと閃いたんだ。それでのばらを待っていたんだが、予想通り詳しくて助かった。ありがとう、神の使い」
「ど、どういたしまして……って、神の使い、全然関係ねェェェェ!!」
だからって、それが関係することを頼まれても困るんだけどさぁ! 魔物退治とか!
まあ、これで高橋が置かれている状況は分かった。ということは、これから向かおうとしていた場所で、問題はなさそうだ。
電柱から降ってきた高橋に「ここの辺りで、家具および家電を扱っている大きな店があれば、教えてもらえないだろうか」と言われたあたしが思いついたのは、二つ隣のJR梨川駅前にある大型ショッピングセンターだった。去年の春、あたしのお兄ちゃんが大学入学と同時に一人暮らしを始めることになって、そのための家具や家電、生活用品を買うために家族で行ったことがあったのだ。大体のものはそこで揃ったはず。……ということを高橋に説明してあげたところ、なぜかあたしも案内役として付いていくことになってしまった。魔物退治じゃないということで、逆になんだか断りづらくなったのだ。まあいいんだけどさ、電車代も出してもらったし。
三、四番ホームへの階段を上る。ホームは少し混んでいる。もうすぐ電車が来るのかな、と思ったら、ちょうどチャイムが鳴った。ビンゴ。
緩やかに出来ていた乗車待ちの列の後ろに並ぶ。右の方から電車の音が近付いてきた。銀の車体に青のラインが描かれた電車がホームに滑り込む。減速する電車に合わせて、扉に近づこうと、ぞろぞろと乗車待ちの列が動く。
ようやく、耳障りな金属の高音を立てて電車が止まり、扉が開いた。温かい空気がほんのりと流れてくる。はあ、と思わず息を吐くと、真っ白になって昇って溶けた。
降りる人を待ってから、後ろの人に急かされながら車内に入る。席はすべて埋まっていた。奥の閉まっている扉のそばに、高橋と並んで立つ。
高橋が扉に背を預け、腕を組み黙って目を伏せて立っているので、あたしはそばのポールを握って車内を見回す。アナウンスとチャイムが流れて、扉が閉まった。駆け込み乗車をする人はいなかったらしい、一回できちんと扉は閉まる。電車が動き出す。
車内広告をざっと見て、……大して見るものもなくて、そのままあたしの視線は何となく、隣に立つ高橋へと移る。
どうやら今日の高橋は、本当に家具と家電を買うだけのつもりらしい。装飾てんこ盛りのファンタジーな黒いマントを羽織るわけでもなく、教師をしているときの黒いスーツにネクタイ姿でもない。ごくごく普通の、男の人の、恰好をしている、と思う。薄手のニットに細身のジーンズ、その上に丈の長いコートを羽織って。あたしはちらりと高橋の横顔を覗った。こうして見る高橋は、なんだか、普通の人に見える、かもしれない。それなりに顔も整っているし。……ただし、黙っている状態に限る。
あんまり長い間見ていて、そのうち高橋が瞼を開けたときに目が合っても面倒なので、あたしは正面を向いた。ちょうどそのとき、ごぉ、と風の音がして扉が大きく揺れた。電車がトンネルに入ったのだ。
向かいの扉の窓ガラスに、あたしの姿が映っている。ジャージやら水筒の詰まったぱんぱんのスクールバッグを肩にかけ、どことなくよれた制服を着て立っている女子中学生。
窓ガラスの端っこの方に高橋も映り込んでいた。あたしとは、顔一つと半分くらい、背の高さが違う。この状態で、あたしと高橋の組み合わせって、一体何に見えるんだろう。兄妹ではないよなあ……。
電車がトンネルから出た。
「まもなく、梨川、梨川ー、っです」
車掌さんが独特の節をつけて、梨川駅への到着が近づいたことを告げる。
減速。席に座っていた人たちが、ぽつりぽつりと立ち上がり始める。高橋が腕組みを解き、扉から背を離してつり革を掴む。車体が揺れて、窓の外の景色が止まる。
「梨川、梨川。お降りの際はお忘れ物にご注意下さい」
ぷしゅう。開いた扉から寒い空気が流れ込む。降りる人は多く、その人の流れに乗って、あたしたちは扉から吐き出されていく。高校生に、高橋との間に割り込まれそうになって、あたしは慌てて高橋のコートのベルトを掴んだ。
「のばら、このまま人の流れに沿って階段を降りればいいのか」
「うん、そう、そうなんだけど、ちょっと待って高橋ー!」
「どうした、神託でも受けたのか神の使い」
「はぐれそうになって呼び止めてるだけだからぁぁぁぁ! 仮に受けるとしてもこんな白昼堂々電車のホームで神託受けねえだろ!!」
「しかしもう二十一世紀だし……」
「そこに関係ってなくない!?」
言い合いながら階段を降りていく。地下通路をしばらく歩いて、再び地上へ。ポケットから切符を取り出し自動改札に通す。
駅の屋根から出て、さあ着いた、梨川!
外は相変わらずの、冬の寒い曇り空。けれど、背の高い大きなビルが立ち並ぶ梨川駅前は多くの人が行き交っていて華やかだ。家電店のビニール袋を下げた家族連れ、カラオケ店から出てくる学生たち。駅前ロータリーのバス停には列ができている。
辺りをきょろきょろと見回していた高橋が、ふとそれをやめ、目を細める。
「……ん、あれか?」
指差したのは、ロータリーの向こうの白いビル。梨川駅前のビルの中で、縦も横も一番大きな建物だ。壁には、入店しているテナントの看板が並んでいる。上から三つ目の緑の看板に、探していた家具チェーン店の名前を見つけた。
「うん、あそこ!」
「そうか、では行くぞ。なるべく安くて使い勝手がよくて壊れにくいものを選んでくれ、神の使い」
「あんたの中の巫女のイメージはどんななんだよッ!」
ちょうどそのとき、あたしのお腹が小さくだけど鳴った。慌ててお腹を押さえる。ちらっと横目で高橋を見たら、気付いた様子はなかったので、少しほっとする。……いや、別に高橋に聞かれたからどうっていうこともないんだけど……。
っていうかむしろ、聞かせてやりたい。そう、あたしは部活の午前練習を終えた後すぐに高橋につれてこられたから、お昼ご飯を食べていないのだ。神の使いはお腹が減ってるぞー、少しは気遣え!
よし、さっさと家具と家電を選んで、お昼ご飯もついでにおごってもらおう!
俄然やる気になってきたあたしは、元気にショッピングセンターへ踏み出した。