間章 おしゃべりは箒を持たずに
一週間のラスト、金曜日の五時間目の授業は、音楽。この後は掃除の時間なんだけど、あたしは音楽委員なので、先生と一緒に音楽室の整頓をしなくてはいけない。
音楽の――先ほどまで優しい笑みを浮かべ、綺麗な字で板書し、合唱曲「オーラリー」の伴奏をしていた「高橋先生」は、きゃあきゃあとはしゃぐ女子生徒たちを手を振り見送って、黒板の文字を消すあたしの方を振り返ったときには、
「音楽の授業が五時間目でよかった」
すっかり、見慣れた無表情。ただの高橋に戻っていた。相変わらず表情を変えずに、右肩をぐるぐると回している。
「慣れない教師の真似事はさすがに疲れるからな。しかも今日は金曜日、一週間の疲れも溜っている。五時間目なら、給食の時間に出る牛乳の効果が最も残っているから、まだなんとかなる。六時間目なら危なかったな」
「あれだけ堂々と授業しておいてよく言うわ……もはや詐欺でしょ」
「詐欺?」
心外だ、とでも言うようにぷすーと息を吐く。
「詐欺というのは、人を騙して金などを手に入れる行為だろう。俺はそんなことはしていないぞ」
「……『人を騙して』」
「まあ、本来赴任するはずだった音楽教師のふりをして、教員免許も持っていないのに音楽を教えているが」
「……『金などを手に入れる』」
「まあ、その結果給料ももらっているが」
「紛うことなき詐欺じゃん!?」
高橋は「しまった」と言って肩を回すのをやめた。
「本当だ。これは詐欺だな。どうしようか、神の使い」
「お前は神の使いに何を求めてるんだよ!!」
「俺はここのところしばらくホテル暮らしをしているのだが、二週間ほど先まで予約をとってしまっているんだ。万が一俺が逮捕されたら、ホテルにキャンセルの連絡を入れてほしい」
「それ、神の使いに頼む必要ある!? そもそもあたしは神の使いじゃないからぁぁぁ!!」
すると、何かに気づいた、というふうに高橋がぽんと手を叩いた。
「……なるほど、確かにこれは神の使いでなくても構わないな。たとえば」
その手で指差す先。
「羊とか」
「ちょっと高橋先生ー!?」
音楽室の窓ががらっと空き、クラスメイトの初瀬明日香ちゃんが廊下から身を乗り出してきた。
「わたしは羊じゃないんですけど!! 羊の魔物なんですけど!!」
ぶんぶんと手を振り回して訂正するとおり、訳あって中学生のふりをしているけれど、彼女は羊の魔物「ハマル」だ。かなり憤慨しているらしく、そのまま窓から音楽室へ入ってきた。ぴしゃん、と音を立てて窓を閉める。
「明日香ちゃんどうしたの、掃除は?」
「わたしは高橋先生のことを見張ってたの!!」
明日香ちゃんは腰に手を当て、高橋のことを指差しながらずかずかと近づいてきた。
「なんだかんだあったけど、わたしは高橋先生のことを信用してないからね! わたしの仲間のシェラタンが逃げて行方不明になるきっかけを作ったりとか、わたしのことを騙して最終兵器を使ったりとか! だから、妙なことをしないように、見張ってるの!」
そして胸を張ってふふんと笑った。
ただ、この明日香ちゃん、先日学校が破壊される騒動を起こした張本人なので、どちらかというと妙なことをしないように見張られる側だと思うんだけど。たとえば、
「見張るだなんてよく言うわね」
そう言って登場した、守本中学校風紀委員長にして高橋の同僚(エクソシスト)の伊吹花折さんあたりに。
「げっ、花折ちゃん」
長く艶やかな黒髪をなびかせてドアから入ってきた伊吹さんに対して、明日香ちゃんは露骨に嫌そうな顔をしてみせる。
「風紀委員長は掃除しなくていいのー?」
「ええ、いいのよ。掃除がきちんと行われているかどうか見回るのが、風紀委員長の仕事だから」
「うぐぐ……」
からかおうとしたところをあっさりあしらわれた。明日香ちゃんを倒したことを確認すると、伊吹さんは次に不機嫌そうな顔を高橋に向ける。
「全く、のんきに音楽教師なんかやって」
「そうでもないぞ。俺は常に、ホテルのキャンセルと隣り合わせの生活だ」
「は?」
「ちょっとややこしくなるから高橋は黙ってて!!」
あたしが言うと、高橋は手で口を覆った。
不審そうな目であたしと高橋を見つつ、伊吹さんは額に手を当ててため息を吐く。
「通常業務に加えて、ハマルの見張りに、まだ見つかっていない残り三匹のシェラタンの捜索。まったく、この問題の元凶なんだから、さっさと手伝いなさいよね!?」
よく見てみれば、(見た目は)完璧超人である伊吹さんにしては、制服がしゃんとしていないし髪に枝毛も見える。エクソシストのお仕事って大変なんだなあ、本当は。
大変そうじゃないエクソシストの方を見やると、奴はまだ手で口を覆っていた。伊吹さんが再びため息を吐いた。
「まあ、あなたが手伝ったところで、せっかく捕まえたシェラタンをまた逃がす、ってのがオチでしょうけど」
ああ、容易に想像がつく……。
このエクソシスト、捕まえた魔物をうっかり逃がしてしまう常習犯なのだ。それにしても、そんなにしょっちゅう逃がしてしまうなんて。
「ねえ高橋、魔物を捕まえておくのって、そんなに難しいの? ……ああ、うんごめん、もう黙ってなくていいです」
「そうか。……そうだな、捕まえておくこと自体は難しいことではない」
「へえ、どうやるの?」
「魔物退治を行うときに放つ光を、魔物の周りに留めておくんだ」
そう言いながら、高橋は明日香ちゃんのそばに寄った。そして自分の靴を指差すので、見てみると、つま先で触れた床が淡く光っている。靴を動かせば線が引かれた。
「へー」
捕まえられる側の魔物である明日香ちゃんも、きちんと見るのは初めてなのか、興味深そうに眺めている。
そのまま、ぐるりと一周。
「なるほどー」
「こうすることで魔物を閉じ込めて」
「ふんふん」
最後にとん、と床を蹴ると、ふわりと光が立ち上がり、それはまるで檻のように、中にいた明日香ちゃんを……。
「……ちょっ、ちょっとちょっとちょっとちょっと――!!」
……包みかけたところで、大慌てで光の隙間から飛び出した明日香ちゃんと、気付いたあたしが叫んだのが同時だった。受身をとって床に転がった明日香ちゃんは、がばっと身を起こす。
「どうした、のばらもハマルも」
「どうしたもこうしたも、何をナチュラルに、わたしを捕まえようとしてるの高橋先生!!」
「ちっ、バレたか」
「真顔のまま舌打ちしないで高橋! せめて舌打ちには感情を込めて、怖いから!!」
あたしと明日香ちゃんに交互にわめかれても、高橋はどこ吹く風だった。
「あら、惜しかったわね。あなたにしてはやるじゃない。詰めが甘いあたり程度が知れるけど」
さらに伊吹さんが冷たい目で見てくる。怖い、エクソシスト怖い! ひい、と明日香ちゃんが震え上がった。
でも、そうなのだ。こうやって一緒に過ごしてはいるけれど、明日香ちゃんはれっきとした魔物なのだ。その気になれば、きっとまたこの校舎くらいぶっ壊せるのだ。高橋がうっかり逃がしていなければ、今頃おとなしく「裏」の世界で暮らしているはずなのだ。
だったら、今の高橋のたくらみが成功して、明日香ちゃんは「裏」へ帰ったほうがよかったんだろうか。
……ううん、違う。違う、とあたしは思いたい。
明日香ちゃんはれっきとした魔物なのだ、けれど、こうやって一緒に過ごしているのだ。その気になってない明日香ちゃんは、この校舎で授業を受けるのだ。高橋がうっかり逃がしていない明日香ちゃんは、今日もあたしのクラスメイトなのだ。
だから。
「だ、だめだからね!!」
声を上げたあたしに、高橋と伊吹さんが振り返った。う、うう、二人の視線があたしに向かっている。いや、負けるなあたし! 短く息を吸って、今のはあたしの言い間違いでも二人の聞き間違いでもないって、宣言する。
「明日香ちゃんを勝手に『裏』に返しちゃ、だ、だめだからね……!」
伊吹さんは不意をつかれたように、少しきょとんとした顔をした。高橋は相変わらず何を考えてるのかよく分からない、無表情のままだったけれど。
「……」
ややあって、伊吹さんがふう、と息を吐く。
「冗談よ。彼女を『裏』に返すつもりなら、もうとっくにやっているわ。逃げているシェラタンを見つけなきゃいけないから、そのためにもしばらくいてもらわないといけないのよ」
「あ、そ、そうだったんだ……」
落ち着いて説明されてみれば、確かに、本気で明日香ちゃんをどうこうしようとしているわけなんてない。力強く抗議しちゃったのが、なんだかちょっと気恥ずかしくなりかけたとき、
「のばらぁああ!!」
「うわ、痛っ!」
明日香ちゃんが飛びついてきた。魔物特有の静電気体質により、特大の静電気を発生させて。
「ありがとうのばら、そう言ってくれて嬉しい!!」
「や、やだな明日香ちゃん大げさな、ちょっと恥ずかしい」
「ううん! わたしは嬉しかったの!!」
ぎゅうぎゅうとしがみつく明日香ちゃんは、あたしとの間でまだぱちぱちと静電気を起こしていて、正直痛いんだけど、でも確かにそこにいるのだと分かって、あたしも、嬉しかった。
あたしたちの様子を見ていた高橋が、ふと口を開けた。
「そういえば、のばら」
「何、高橋?」
「友情を確かめ合っているところ悪いが、掃除の時間が」
キーンコーンカーンコーン。
「終わるぞ、いや終わったぞ」
チャイム、そして淡々と告げる高橋の声。え、とあたしが声を上げる前に。
「うわ、やばい!! のばらも急ぎなよ!!」
明日香ちゃんはぱっとあたしを放し、勢いよく音楽室を飛び出していった。あっさりと、あたしを残して。
……って、ちょっと待てェェェェェ!!
掃除! 音楽室の掃除、まだ全然やってない! 黒板に書かれた楽譜の一段目しか消してない!!
「ホームルームが始まるわよ、急ぎなさい」
「伊吹さんんんん!?」
入ってきたとき同様、黒髪なびかせ伊吹さんがしれっと音楽室を出ていく。
手伝って、を言う前にあっという間に人数が半分になってしまった。は、薄情なエクソシストと魔物め……魔物にいたってはさっき友情を確認したとこじゃん!! なんて儚い!
愕然とするあたしの肩を、ぽんと硬い手が叩いた。
「大丈夫だ、のばら」
振り返ると、そこにはとても真面目な顔をした金髪碧眼スーツのエクソシストが、黒板消しを差し出していた。
「チョークの粉は黒板消しでこすると消える」
「……知ってるけどぉぉぉぉ!?」
全く役立たずの詐欺教師から黒板消しを奪い取り、黒板へダッシュしたあたしの瞬発力は、たぶんこの冬で一番だった。