第二章 交わるマイワールド
2.彼女と悪魔と最終兵器−6
背中のフェンスに身体が押しつけられたのは、一瞬のことだった。
滑らかな白い霧に包まれたかのように、辺りの景色はぼんやりと見える。
明日香ちゃんが屋上にぺたりと尻餅をついた。目の前に立つ高橋は、トライアングルの棒をくるくると回しながら周りを見回す。
「なるほど、正しく発動させるとこんな感じになるのか」
「な、……な……!」
明日香ちゃんが高橋を指差す。口がわなわなと震え、何かを言いたくて仕方ないのに言葉が出てこない、そんな顔だ。そしてそれはあたしも同じだった。ぶるぶると震えて全く定まっていない二人分の人差し指に指され、高橋があたしの顔を見て首を傾げる。
「どうかしたのか」
「どっ、どうしたもこうしたも……!」
「だ、騙したな、ひきゅぉっ、卑怯者ぉっ」
「騙される方が悪いでしょうよ」
いつの間にか明日香ちゃんの背後に立っていた伊吹さんが、後ろからトライアングルを優雅に取り上げる。返しぇ、返せー、と尻餅をついたまま明日香ちゃんが手を振り回すけれど、まず全く届いていないので何の効果もない。しかも盛大に噛んでるし。
……そうだ、明日香ちゃん! さっきの明日香ちゃんの言葉を思い出す。「帰らないためにも、その得体の知れない最終兵器は返しません」。今、最終兵器は叩かれた。それも、明日香ちゃんから十センチも離れていない、まさに目の前で。
「明日香ちゃん大丈夫!?」
手で背中のフェンスを押し、勢いで明日香ちゃんの元へ駆け寄る。伊吹さんへ振り回していた手を止め、明日香ちゃんが振り返った。明日香ちゃんと同じく屋上に座り込み、その肩を掴む。
「ちょっと明日香ちゃん、平気!?」
「う、うん」
明日香ちゃんがぽかんとした顔であたしを見る。
「平気、……あれ?」
答えて、自分の答えにびっくりしたかのような顔で自分の身体を見下ろし、あたしに掴まれた肩を見る。
「……全然……なんともないんだけど……。むしろ肩こりが治った気がする」
「明日香ちゃん、その歳で肩こり持ちだったの!?」
「冬場は割と……」
そう言いながら、あたしと明日香ちゃんの視線は、まず伊吹さんへと向かう。視線に気付いた伊吹さんが、ため息をついて、高橋を見て口を開く。
「あなたが何も説明しないから、わたしたちの方が悪者みたいじゃない」
「悪役ではなかったのか」
「少なくともわたしは違うわよ」
「俺も違うな」
「ちょっと、あなたと一緒にしないでくれる?」
エクソシスト二人の会話がナチュラルにずれていく。悪役ではないらしい二人にどうにか話を聞こうと声をかけようとしたとき、明日香ちゃんが不意に声を上げた。
「校舎」
「え?」
「直ってく……」
驚いて気の抜けたような声。尻餅をついたまま横を向いてぽかんと口が開き、数度続けて大きな目が瞬きをした。
「校舎? ……あ!」
あたしも横を向く。音楽室の方向だった。二階にある音楽室は壁も窓もほぼなくなり、穴や凹みができた床がここからよく見える。椅子もぐちゃぐちゃ。壁の崩壊は上下の階にも及んでいて、真下の地面には恐らく壁の残骸なのだろう白い大きな塊がいくつも落ちていた。なかなかに酷い状態なんだけど、確かに目を細めて注意深く見てみれば、……あれ、さっき見たときよりも音楽室の壁がある……気がする!
立ち上がって、フェンスのところまで駆け寄る。身を乗り出して目を凝らす。剥き出しのコンクリートの傷口に、どこからか、何かきらきらとした白い粉が集まってきていた。あ、今、大きな欠片が下の方からふわんと飛んできてくっついて、収まった。コンクリートの欠片、……崩れたものが戻っていく。まるでビデオを逆再生しているかのように……時が戻っているかのように。
凹んだ床がぼこ、と膨らんで戻る。横倒しの椅子が空を飛んで、足から着地。ぴたりと綺麗に並んでいく。
後ろから、大きな硬いもの同士がぶつかる音がしたから振り返ってみれば、屋上へ出る扉が形を取り戻していくところだった。さいごにがしゃん、と一際大きな音がして、転がっていた扉が取り付けられた。
「広く知られる神話や伝説が元となって、いわくつきの品が生まれ、これが最終兵器となっていく。ミョルニル、という北欧神話の槌を知っているか?」
すぐ横から高橋の声が聞こえた。あたしの横に立ち、フェンスに手をかけて立って、音楽室をまっすぐに見ている。
「し、知らない」
「そうか。話は変わるが、最終兵器の効果は、大きく分けて三種類ある。一つは戦いに関するもの、次に自然現象、そして、生と死に関わるもの。……この世の生き物にとって、生死とは文字通り生と死だが、神話や伝説には欠かせないのが」
「……再生……かぁ」
「百点だ」
ぽつりと言った明日香ちゃんを、高橋がぴっと指差した。
「最終兵器を探すことになった時から、兵器専門のエクソシストを少し離れたところに待機させていてな。この騒動の間、最初に試し打ちした時のデータを解析させていたんだ。その結果、つい先ほど、この最終兵器の元となったのはミョルニル、大きなハンマーだと分かった。自在に大きさが変わるから殴ってもよし、手放しても必ず手元に戻ってくるから投げてもよし、儀式に使われたり、あと生き物を生き返らせる、再生の力もあるという」
「……すごく便利なハンマーだね」
「そうだな。そういうわけで、この最終兵器には『再生』の効果がある。崩れたもの、消えたもの、全て」
「戻っていってるんだぁ……」
音楽室がきらきらと輝いていた。何かと思ったら、浮かんだ細かなガラスの破片が、冬の淡い光を受けて反射している。窓のアルミサッシが真四角に戻り、枠の中をガラスが埋める。
高橋の左腕の傷も、見えなくなっていた。
「もちろんこのことは、事前にも予想されていた。伊吹に聞いたところ、これまでの潜入調査の結果、少なくとも再生の効果を持つ何かだろうということが分かっていたらしい」
「言っておくけど、二年間、何もやってないわけじゃないのよ。潜入して一時間で最終兵器を見つけた、あなたの悪運が強いだけで」
ふん、と伊吹さんが鼻から息を出す。
「校舎もこれだけぼろぼろになったことだし、それならば最終兵器を是非使おうということになったのだが、恐らく事情を言ったところですんなり最終兵器を返してくれるとは思わなかったからな。お前の言葉で言うなら、そう、騙させてもらったわけだ。さて、再生するのはここまでか」
高橋が辺りを見回す。白くぼやけた靄は薄れ始めていた。はっきりと見える守本中学校の校舎は、あたしが見慣れた、いつもの姿だ。少し古くて汚れてる、校舎。ああよかった、明日も無事に部活ができる、なんてどうでもいいことをあたしは思った。
★
「それじゃあな」
すっかり靄も晴れた、守本中学校正門。
最終兵器を黒い布に包み、スーツの内ポケットに入れて、高橋が言った。……割と無造作に入れた気がするんだけど。まあいいか、結局トライアングルだし。
高橋は最終兵器を届けるために、これから本部へ戻るそうだ。
伊吹さんは、明日香ちゃんを連れて先に行ってしまった。ぶうぶうと文句を言う明日香ちゃんと口論しながら。途中で、校舎から逃げた二年三組の皆と先生たちの対処もしておくと言っていた。……最終兵器の白い光は、校舎を直してくれたし、恐らく皆の記憶も修正はしてくれているらしいのだけど、人間を元いた位置に戻してはくれないらしい。つまり逃げた皆は、どうしてそこにいるのかが分からずに呆然、という状況だろうから、きちんとフォローしておかないといけないらしい。絶妙に不便だな、最終兵器……。
「のばらには、世話になったな」
「……本当にね」
はあ、と大げさにため息をついてみせると、高橋が声だけで軽く笑った。
あたしはちらりと高橋を盗み見る。
……最終兵器は、見つかった。
高橋が魔物を逃がしすぎているから、その解決策として、最終兵器を探していた。つまり、最終兵器が見つかった今、きっと高橋が逃がした魔物を追ってやって来ることは随分と減るんだろう。
あたしは後ろで手を組んで、そっぽを向いて口を尖らせる。
「まあ、これで世界が平和になるのなら、別にいいんだけどー」
「そうだな」
高橋があたしに背を向けた。正門をくぐり、そのまままっすぐ歩いて行く。
振り返らない高橋の背中を、あたしは見ていた。点にも見えなくなっても、あたしは動かなかった。
「――昨日も挨拶したけど、改めまして。今日から毎週、金曜日の五時間目に二年三組の音楽の授業を担当します、高橋ノディです。よろしく」
……あ、あれ?
「えーと、何か質問のある人がいれば、どうぞ」
「はーい!」
「じゃあ初瀬さん」
「高橋先生は、何歳ですか!」
あたしの目と耳とその他諸々が間違ってなければ、音楽の先生が、昨日別れたはずのエクソシストのままで。
「ちょっと明日香、いきなり年齢聞くんかい!」
「ええっ、だって気になるって皆言ってたじゃん」
「しかもなんで高橋先生に名字覚えられてるの!?」
「それは秘密ー。えー、高橋先生、年齢聞いちゃまずいですか?」
クラスメイトの中に、昨日校舎を破壊していた魔物がいて。
「別に問題ないよ。二十二歳だけど」
「わあ、近いんですねー!」
「そうだね。まあ、気軽にいろいろ聞いてくれると嬉しいな。それじゃ、授業を始めようか」
何事もなく音楽の授業が行われてるんですけど――ッ!?
「……なんで」
あたしは、最近何度も何度も言った疑問詞を今日も言う羽目になった自分が、そろそろ可哀想だと思った。
「何がだ」
「なんで、高橋が音楽の授業をしてて、明日香ちゃんが音楽の授業を受けてるわけ――!?」
……音楽の授業の後、音楽委員は片付けを手伝うために残らなきゃいけない。皆が先に教室へ戻ったのを確認してから、あたしは腹の底、そして心の底から叫んだ。
「俺が音楽教師で、初瀬が守本中学校二年三組所属だからだろう」
「そういうことじゃなくてぇぇぇぇっ!」
「それとも家庭科を教えてほしかったのか?」
「教えてほしくないし! なんで家庭科なの!?」
「俺の作る牛乳料理は、エクソシスト内でなかなか評判なんだが」
「牛乳料理って、何そのジャンル!?」
「ライバルは生クリーム料理だ」
「何を競ってるんだよ!! あーもう、そうじゃなくて、なんで高橋がまだ教師をやってるんだって聞いてるの!」
お前は最終兵器を持って本部へ戻ったんじゃないのか!? それに最終兵器は見つかったんだから、この学校にいる必要はなくなったんじゃないの!? なんで帰った次の日に、あたしの中学校にいて、何事もなかったかのようにスーツを着て「音楽の先生」をやってるんだ!!
「ああ」
納得したように高橋が頷く。
「最終兵器の効果は、校舎が壊れる直前までだったからな。俺が始業式で自己紹介した部分や、さらに遡って初瀬が二年三組の生徒として過ごしているという部分までは取り戻せなかった。突然生徒が一人いなくなるわけにもいかないし、前任の音楽教師も産休でしばらくは戻ってこないらしいし、本来着任予定だった講師も俺がちょっとこうしてああしてどうこうしたせいで来れないし、仕方がないだろう」
「絶妙に不便すぎるだろ最終兵器!! っていうか大丈夫なの、本来の音楽の先生!?」
「大丈夫、彼は今、輝く明日へ向かって歩んでいる」
「どういうこと!?」
結局のところ、高橋は音楽教師として守本中学校に居座るのか! なんかもう、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からなくなってきた!
そして高橋は、こほん、と小さく咳をする。
「……それに、その……以前捕まえて本部で保護していた魔物が数匹、逃げたというかなんというか」
「またかてめぇ! 最終兵器はどうしたのよ!?」
「本部に預けてしまったから、調査が終わるまでお預けだ」
「本当に使えねえなあの最終兵器! ああもう、数匹って何匹ッ!?」
「五十二匹」
「お前何やってんだぁぁ――ッ!!」
こんなに寒い日なのに、なんでだろう、すごく暑いんですけど!?
ああ、それでもあたしの世界の一日は、どうやらいつものように続いていくようだった。
「暑いのか? こんな時は冷たい牛乳を」
「いらねェェェェ!!」