第二章 交わるマイワールド
2.彼女と悪魔と最終兵器−5
 悪魔が口を開く。めぇ、と、さっきまでの叫び声からは信じられないような鳴き声が聞こえた。そして次の瞬間から、見る見るうちに悪魔の身体が小さくなっていく。大きな羽、長い手足、尻尾が縮み、地面へ降りていく。身体が丸っこく変化していく。そして最後、とすん、と足をつけたそれは、真っ黒な、ふっわふわのヒツジだった。……可愛い。
 もう一度めぇ、と鳴き、ヒツジが軽やかに、嬉しそうに、明日香ちゃんの元へ向かっていく。明日香ちゃんはため息をついて、中腰になり、やってきたヒツジのおでこをぴんっとはじいた。
「こら、シェラタン。エクソシスト二人はいいとして、わたしの友達に酷いことしちゃだめでしょ」
「めぇ」
「分かればよろしい」
「めぇ」
 明日香ちゃんが受け入れるように手を広げた。あ、と思ったときにはヒツジが明日香ちゃんに触れ、――触れたところから吸いこまれるように、消えた。
「さて」
 ううん、と身体を伸ばし、明日香ちゃんが立ち上がる。そしてあたしの方を見て、あ、と声を上げた。慌ててぱんっと両手を合わせ、困ったように笑って舌を出す。
「ごめんねのばらー、怖い目に合わせちゃって」
「……いや、あの、明日香ちゃん、今の」
「でもねー、のばらも悪いんだよ! いきなり最終兵器を持って逃げちゃうなんて! シェラタンには『最終兵器を奪うように』って指示しかしてなかったから、のばらを追いかけて行っちゃうし、本当に焦ったんだからね。もう、明日香ちゃんはぷんぷんですよ!」
「そうじゃなくて、明日香ちゃん、あの、だから」
 一体何を言ってるんだ明日香ちゃんは。助けを求めて、あたしは扉の所に立つ二人を見る。高橋は緑の目を細め、伊吹さんは手すりを掴む手に力を込めて明日香ちゃんを見つめていた。伊吹さんが舌打ちする。
「……ああ、そう。予想はしていたけれど、あなた」
 伊吹さんの言葉を聞いて、明日香ちゃんが振り返り、二人と向かい合った。
「やっぱり魔物だったのね。羊の魔物シェラタンを従えているということは、その頭、ハマルか」
「それは負け惜しみじゃなくて?」
 明日香ちゃんは、身体の後ろで手を組んで、普段と全く変わらない調子でそう言う。あたしからは背中しか見えないけれどきっと、少し上目遣いの、いたずらっぽい笑顔を浮かべて。
 かちんときたのか、伊吹さんがじろりと睨み返す。
「違うわよ」
「でもさっきわたしを見て、初瀬さん危ない、って言わなかったっけ?」
「悪魔がいたから心配してあげたのよ。あなたと悪魔が仲間だとは、さすがに思っていなかったから。……というか、気付かない方がおかしいでしょ。自称『静電気体質』だったかしら? まあ確かに、魔物とこの世界との存在のずれによって発生する現象は、静電気あるいは炭酸水の感覚に似ているけれど……その言い訳、夏はどうしていたの?」
「夏も、静電気体質、で通せてたよ?」
「……へえ。皆に怪しまれなかった?」
「ちっとも」
「あら、そう。けれどさすがに、わたしには触れなかったわね。この二年間、一度も。確証を得るために巫女バイトの時に試してみたけれど、……甘酒、飲むって言っていたのに、わたしが両手で、どう受け取ろうとしてもわたしに触れてしまうように器を持っていたのを見て、やめたでしょ。エクソシストに触れれば、『静電気』どころじゃ済まないものね?」
「でもすごくわざとらしい持ち方だったから、触れずにすんだよ? ありがと、花折ちゃん!」
「……どういたしまして」
 口の端を持ち上げて笑う伊吹さんに向かって、明日香ちゃんはふふっと笑って肩を揺らす。その視線は次に高橋へ移った。
「あーあー、高橋先生、やたらと怪我しちゃって。エクソシストだからどうでもいいんだけど。でも、準備もなしにシェラタンと一対一で戦ったんだって思えば、上出来だね!」
「それはどうも」
 高橋が手を後ろへ回して伸びをし、顔をしかめる。
「まあ、どちらかというと、悪魔が出てきたときよりも、のばらが突っ込んできたときの方が余程焦ったからな」
「あはは。だってさ、のばら」
 明日香ちゃんがくるりと振り返った。さっきまで伊吹さん相手に挑発して、高橋「先生」相手に敬語を使わなかった明日香ちゃんが、あたしを見て、いつも通りに笑っている。
「……あ、明日香ちゃん」
 そしてふと我に帰り、明日香ちゃんを指差し、叫ぶ。いやいや、ぽかんと口を開けて明日香ちゃんを見てる場合じゃない!
「明日香ちゃん、魔物なのー!? なんで!?」
 なんか、昨日は明日香ちゃんの代わりに伊吹さんを指差して、同じようなことを言ってた気がするんだけど! どうなってんのよあたしの周り!
「どういうことー!?」
「まあまあ、落ち着いてのばら」
 魔物の明日香ちゃんが、あたしを抑えるように両手を動かす。
「そんなこと言われたって、お、落ち着いていられるわけっ……」
 近寄りがたい表情の伊吹さんには話しかけられず、あたしは高橋に視線を移す。
「た、確かに静電気体質ではあったけど、しかも結構強い静電気体質で東先輩がよく文句を言ってたけど」
 あたしの口から出た言葉が、そのまま混乱する頭に逆戻りしていく。そう、冬だけじゃなく、夏でも明日香ちゃんは「静電気体質」だった。デネボラやミラ、魔物の傍にいると感じる「静電気」と同じ……。
「で、でも明日香ちゃんは中学校に入学してからずっと同じクラスの友達で」
 ……そう、明日香ちゃんは同じクラスの……あれ、同じクラス……だっけ。二年生の四月、「同じクラスだね!」って明日香ちゃんは飛びついてきたけれど、あたしは見た覚えが……ない。だってあたしは、名簿番号三十二番、原のばら。あたしの前の、三十一番は? ……根岸くんだ……そう、クラス替えの表を見て、「ねぎし」と「はら」が連番だから、「はせ」の明日香ちゃんは違うクラスだって思ったはずなのに、その直後に飛びついてきた明日香ちゃんと話すうちに、そんなことすっかり忘れて同じクラスだねって喜んでた。みんな、そう。机が一個足りなくても、プリントがいつも一枚足りなくても、なんでだろうって言いながら、その原因を気にしたことはない。だって明日香ちゃんは、すごく自然に溶け込むのだ。巫女バイトでもいつの間にか溶け込んで、ちゃっかり絵馬に金運上昇なんて書いてるくらいに。
「で、でもデネボラみたいにすり抜けたりしたことなんてないしっ……」
 ぱくぱくと喘ぐように最後の砦を訴えると、伸びを終えた高橋が、いつもの無表情で口を開いた。
「中学校に入学してから、ということは少なくとも二年、この魔物はこちら側にいたということになる。それだけの期間こちら側……こちら側の存在しかいない場所にいれば、影響を受けて、存在がこちら側に引きずられてなじみ、形を持つこともある。すべてがそうではないだろうが、少なくとも、常に曝されている表面なら」
「そうでっす! さっすが高橋先生っ」
 明日香ちゃんがぐっと親指を立てる。最後の砦はごく軽い調子で爆破され、粉々に崩れ落ちた。
「だが」
 返事が軽すぎる明日香ちゃんを、高橋は右手を一度握ってから鋭い視線で見据える。
「二年以上もこちらにいた、というのは、……何だ?」
「どういうこと、高橋?」
 不穏な空気に、思わず尋ねると、伊吹さんが口を開いた。
「ただ迷い込んだ魔物、というわけではないでしょうね。『裏』から魔物が迷い込んだ場合、エクソシストがそれを発見し『裏』へ帰す、もしくは一時捕獲するまでの平均所要時間は六時間。……少なくとも二年間、わたしたちに見つからずこちらに居続けたということは、『うっかり迷い込んだ』ような魔物じゃない。何らかの目的があって自らここにいて、わたしたちに見つからないように行動しているということよ。さて」
「何を企んでいる?」
 二人の右手が僅かに、けれどはっきりと動く。
「吐かせるのは得意よ、わたし」
 さっきの苛立ちが残っているのか、伊吹さんの唇が弧を描く。左手が手すりを掴んでいるのを含めても十分に怖すぎる! っていうか何する気だ伊吹さん! このままじゃ、明日香ちゃんが伊吹さんに、何か分からないけど何かされてしまう!
「ちょ、ちょっと待って待って待って!」
 さすがにこの伊吹さんはまずいと思ったのか、声の裏返った明日香ちゃんが、両手を前に突き出して制止させようとする。
「確かにわたしは、自らの意志で二年ほどこっち側にいるけど、でもそれは仕方がないことなんだってば!」



「よくある台詞ね。殺したのは仕方がなかったんだ、あいつが金を返せと迫るから……! って」
「ああ、それ、元旦の夜にやっていたドラマか。俺も見た」
「わたしも見たけど!」
 ちなみにあたしも見た。
「わたし殺してないから、借金もしてないから! それに、これはあなたたちのせいでもあるの!」
 それを聞いて、伊吹さんが眉を顰める。
「……へえ?」
「そうなのか」
「そう! だから聞いて!」
 ようやく得られた、話を聞いてくれそうな返事に、明日香ちゃんが力を込めて頷く。はあ、と息を吸って吐いて、咳払いをしてから、明日香ちゃんが改めて話し出す。
「わたしと、わたしの仲間のシェラタンたち全部で五匹は、二年前にうっかりこっちの世界に迷い込んじゃったの。そして、あなたたちが言うようにあっさりと捕まって、そのときはすんなりと『裏』に帰るつもりだったの!」
「『だった』?」
「そうだよ、シェラタンが逃げ出すまでは!」
 ぴくり、と伊吹さんの頬が引きつった。
 ……。
 明日香ちゃんの必死の訴えの中に、なぜだろう、あたしも、突然何か引っかかりを覚えた。
 シェラタンが――羊の「魔物が逃げる」。最近、よくこのフレーズを聞いたような……。
「あなたたちの誰だか知らないけど、わたしたちを運んでいたエクソシストが、うっかりわたしたちを逃がしちゃったの! わたしは逃げる気なかったよ!? でも、シェラタンたちがてんでばらばら、好き勝手に逃げて行っちゃったから、追うしかないじゃない! それからわたしはずっとこっちでシェラタンたちを探しているんだけど、まだこの一匹しか見つけられてないんだってば……」
「そうか」
「こっちで動きやすいようにと思って、慣れない人間のふりをして社会に溶け込んでさあ……カメラで写真を撮ると魔物の残り風が写ることが分かったから、高いカメラを買って辺りを撮りつつ、カモフラージュのために新聞部に入部したりさあ……そうこうするうちに早二年ですよ。全然見つかりませんよ。しかも今日、朝学校に来てみたら、シェラタンを見つけ終わって『裏』に帰るときのために隠しておいた『穴』が消えてるんだよ、なんでかなあ……勝手に消えるような規模じゃなかったはずなんだけど……それで嫌な予感がするなあって思ってたら、一人いるだけでも邪魔なエクソシストがもう一人増えちゃうし、最終兵器を見つけられちゃうし。慌ててシェラタンを悪魔化させたけど上手くいかないし、もう踏んだり蹴ったりなんだけど……」
「そうか」
 話すにつれて勢いをなくし、うう、と泣く明日香ちゃんに、高橋が相づちを打つ。……あたしと伊吹さんの視線を気にする様子なんて、微塵もなく。
「うん。……あれ、でも」
 鼻をすすった明日香ちゃんが、高橋を見ながら、何かを思い出すかのように口元に手を当てる。
「『あなたたちの誰だか知らないけど』ってさっきは言ったけど、そういえばわたしたちを逃がしたエクソシスト、なんだか高橋先生に似てるような」
「お前のせいじゃねぇか!!」
 あたしと伊吹さんの声が揃い、一人でそ知らぬ顔をしていた高橋の頭を、伊吹さんが綺麗に殴った。高橋が頭を擦る。
「痛いんだが」
「言ってなさいよ、何が『何を企んでいる?』よこの自業自得が! 顧客からクレーム受けてんのよ!」
「しかし伊吹、これは俺のせいで確定なのか」
「一度に魔物を六匹逃がすエクソシストなんて、あなた以外に知りたくないし、あなたのことすら知りたくないわ!」
 今度は背中に美しく蹴りを入れて、それから伊吹さんは額を抑えた。あああ、と嘆きを吐き出して、そのまま頭を抱えこむ。明日香ちゃんが、タイミングを伺いつつ、伊吹さんを手で呼んだ。
「あー、花折ちゃん、続きを話してもいい?」
「……どうぞお話し下さい……」
 すっかり勢いをなくした伊吹さんが、もうどうにでもなれというように萎れていく。
「そういうわけで、ちょっと今めげそうになってはいるんだけど、でもとにかくわたしはこっちの世界でシェラタンたちを全員見つけるまで帰るわけにはいかないの! もちろん、あなたたちのことも信用できない!」
 明日香ちゃんは、口は笑ったまま、眉をきりりと釣り上げて、エクソシスト二人――蹴られた背中を無表情に撫でる高橋と頭を抱えて悶える伊吹さんに人差し指を突きつけた。もう片方の手で、三角形のトライアングルをぎゅっと握りしめて。
「だからわたしは帰りません! 帰らないためにも、この得体の知れない最終兵器は返しません! わたしは戦うぞっ、かかってこいエクソシストー!」
 明日香ちゃんは胸を張って二人へ宣言する。
 奇妙な光景と短い沈黙の中、高橋が首を傾げ、やがて元に戻して口を開けた。
「そういうことなら、どうぞ」
「……へっ?」
 同じポーズを続けたまま、明日香ちゃんが調子の外れた声を出す。多分明日香ちゃんとあたしは同じ顔をしていると思う。
「な、なんでっ?」
「いや、そういう理由なら、最終兵器をどうぞ、と。要らないのか?」
「い、要る、要るけど、……え? い、いいの? え?」
 激しく動揺しながら、明日香ちゃんの視線が高橋とトライアングルの間を行き来する。
「どうやら俺たち側にも問題があったようだし。別に問題ないよな、伊吹」
「……俺『たち』って、一緒にしないでくれる?」
 話を振られた伊吹さんは、そこに文句をつけただけだった。
 ……えっ、本当にいいの!? 明日香ちゃんに渡しちゃって、いいの!? いや、決して明日香ちゃんが魔物だからどうのこうのとか、明日香ちゃんの雰囲気が軽すぎて信用できないとか、そういうわけではなくて、……頑張って走って逃げて最終兵器を守った身としては、思ってもみなかった方向であっさりと決着がついてしまうのがしっくりこないというか……。
 あたしと明日香ちゃんが二人して動けずにいると、高橋がすたすたと歩いてきた。びくりとして身を引いた明日香ちゃんを素通りし、あたしの前で立ち止まる。右手を出されて、あたしは自分が持つトライアングルの棒と高橋の顔を思う存分見比べる。……で、でも伊吹さんもそう言ってるんだから、渡すべき……? なの、かな、やっぱり?
「は、はい、どうぞ」
 挙動不審のあまり敬語になってしまった。棒を手渡すと、高橋はすんなり受け取り、くるりと振り返って五歩進んで明日香ちゃんの前に立つ。
「はい」
 そしてあっさりとその棒を差し出した。
 ぽかんとした顔で高橋を見上げ、明日香ちゃんの左手がとてもゆっくりと伸ばされる。
「え、ええと、それじゃあ、遠慮なく……?」
「と見せかけてどーん」
 明日香ちゃんの手は、空振った。
 無感動に高橋がそう言い、棒が明日香ちゃんの手をくぐり抜け、全く注意の行き届いていなかったトライアングル本体を叩く。
 キーン、と高く硬質な音が響き渡る。
 最終兵器が光り出す。
「え」
 明日香ちゃんの声をかき消す風の音。何かの圧力が放射状に、弾けた。