第二章 交わるマイワールド
2.彼女と悪魔と最終兵器−4
 ――あたしは彼の名前を、最後まで呼んだ。一気に呼んだ。ドアノブを引っ掴み、回し、開け放つ。転びそうな勢いで駆ける。あたしの世界を救うために!
「高橋!」
 音楽委員のあたしは知っている。ドアを開けたところに、スクリーンを下ろすための長い棒が置いてあることを。しかもそれが割と硬くて、この間ふざけて男子が振り回していたら壁が凹んだことを。棒を引っ掴み、今まさに振り降ろされようとしていた黒い腕へ向かって、あたしはまっすぐに走る。
「のばら!?」
 僅かに高橋が振り返り、目を見開いた。
 うわ、何その表情。ぎょっとしたような顔をして。確かにあたしは一般人で、そうだってあたしも何度も何度も言ってきた、けど!
「なめんじゃないわよ、どいつもこいつもぉぉぉぉっ!」
 長い棒の端を両手で握りしめ、思い切り後ろへ振りかぶる。力をこれでもかと溜め、向かってくる腕を薙ぎ払う!
「いっ……!」
 棒がヒットした瞬間、手の平から肘を通って肩までが衝撃でびいんとしびれる。手から離れようとする棒を、だめ、と握りしめる。身体が弾かれ、どすん、お尻が音楽室の床に落ちる。
 ……いっ、たぁ……!
 今度は下半身がしびれたけれど、でもここで痛い痛いって泣いてるわけにはいかない。すぐに辺りを見回す。跳ね返すまではできなかったけれど、狙いの逸れた悪魔の腕は、少しずれたところの床にめり込んでいた。トライアングルの棒は、まだ、そこにある! 躊躇うことなく、あたしはそれを拾い上げた。や、やればできるじゃん、あたし。痛いけど。やっぱり痛いけど。
 痛みをきちんと自覚すれば、今さら、膝が笑い始めた。膝、大爆笑。
「た、高橋、大丈夫?」
 誤魔化そうとして高橋に声をかけてみれば、その声は見事に震えている。あたしが大丈夫か、って感じだった。一応笑顔を浮かべようとしてるんだけど、上手くいってる気がまるでしない。そもそも、膝の震えをなんとかするために床に棒を立ててしがみついてる時点でだめだった。
 棒に向かって手を伸ばしたまま唖然としていた高橋は、あたしの言葉となかなかに情けない姿を見て、ようやく我に返ったようだった。
「のばら、お前、何してっ……逃げろと言っただろう、どうしてまだここに」
「ど、どうしてって」
 無駄に口の中に溜まった唾を飲み込んで、不規則な呼吸の合間にあたしは応える。
「あたしの世界を、救いに、来たの」
「は……」
「ねえ高橋」
 高橋が言葉を一瞬失った隙に、あたしは言う。そうだ、いくら震えてたって、これだけは聞いておかないと。
 棒から片手を放す。弾む胸を押さえて、口を開く。
「あたし、ちょっとは救えてるかな」
 それを聞いて、再び目を見開いた高橋は。一度目を閉じて、頷いた。
「……、正直、助かった」
 あたしも頷きで返す。――ああ、よかった。
 はあ、と息を吐く。全身から力が抜けかける。
 って、だめだだめだ。ここまではよかった、ってだけの話だ。
 あたしは悪魔の方を向く。ずるり、と床から黒い腕が引き抜かれた。品定めするように、悪魔はその赤い目であたしを上から下まで見ていた。両手から一本ずつ、新たな黒い腕が伸びる。威圧感を差し引いても、悪魔の身体はあたしより相当大きかった。音楽室に入れば、天井に頭がつくんじゃないだろうか。
 それにしても、この、なかなか仕掛けてこない感じ。試されてる、というか遊ばれてるんだろうなあ。ただ申し訳ないことに、あたしは悪魔さんと仲良く遊ぶことはできない。そもそも、さっきは悪魔の腕が一本だったのと、あたしの攻撃が奇襲だったからなんとかなっただけだ。悪魔の態勢が整った今の状況でまともに相手をするなんて、早まるな、と自分で自分を説得するレベル。そして説得されれば即座に頷くレベル。
 高橋が床に手をついて身を起こす。一瞬、顔をしかめて、わき腹へ手が伸びかけたけれど、それは寸前で止まった。力を入れ、一気に立ち上がる。そして薄く息を吐き出した。
「……助かった、が、だからと言って敵う訳じゃない。伊吹ももう戻ってくるだろうから、のばら、最終兵器は預けて、今度はきちんとここから離れろ。走るのは速いだろう」
「うん」
 そう、高橋の言うことはもっともなのだ。伊吹さんはもうすぐ戻ってくるんだろう。悪魔がいるからここから離れた方がいいんだろう。それにあたしは足が速い。特に、短距離と、ハードル走と、この冬練習した階段が。
 うん、そうだ、逃げよう。……高橋が、痛めているはずの身体に手を伸ばしかけて無理してやめた高橋が、時間をかせいでいる間に? 
 まさか!
 あたしは大きく息を吸う。吸って、履いて、にっこり笑って高橋を見る。よし、笑えた。
 逃げるよ。――ただし、最終兵器は、悪魔にもあんたにも渡さないけどな!
 足を肩幅に開き、あたしは大きく息を吸った。肺が痛くなるまで吸って、頭がくらくらするまで止めて、その酸欠の頭のまま、口を開くと同時に悪魔の方へ最終兵器を突きつける。見せつける。
「トライアングルって、棒がなけりゃ意味ないでしょ! 最終兵器がほしいなら」
 お腹の底から声を張り上げる。
「追いかけてきなよ、追いつけるなら!!」



 言い終わるのが合図だった。追いかけてこいっ、と祈りを込めて、あたしは百八十度後ろを向く。音楽室の床を上履きが蹴って、きゅっと鳴る。高橋が、待て、と言った気がするんだけどここで立ち止まるなんて冗談じゃない。棒を放り投げ、代わりにドアノブにしがみつく。回すと同時に押して、あたしは廊下へ飛び出した。明日香ちゃんの姿はもうない。先に逃げたんだよね。よかった、と思った直後、後ろから大きな音がして、足の裏に衝撃が伝わる。少しだけ振り返れば、音楽室からあたしを追って、悪魔が飛び出してきたところだった。よし、かかった! ドアよりも大きい悪魔は、ドアの周りを壊して飛び出てきたから、その分あたしよりも遅い! そして、いろんなものを壊せるとは言っても、学校内の狭い空間じゃそれほど自由には動けないはずだ。
 まともに相対しても勝ち目があるわけがない。だからあたしは高橋の代わりに最終兵器を持って、走って、逃げて、守る! それこそ伊吹さんが戻ってくるまで! 時間稼ぎ上等だ!
 階段を駆け下りる。飛ぶように三段飛ばし。相手は飛ぶように、というか本当に飛んでいるからもっと速いんだけど、勝手が分からないのか、折り返す踊り場で壁にぶつかって減速する。その間にあたしは一階の床を踏む。右手には玄関があるけれど、皆が学校から避難した今、学校から悪魔を出しちゃいけないだろう。左に曲がり、特別教室の並ぶ廊下を全力疾走する。
 家庭科室を通り過ぎ、後ろに悪魔の姿を見て、次の理科室の後ろの引き戸を開け放って飛び込んだ。実験用の備え付けの大きな机と簡易な椅子が並ぶ理科室内。机に片手をついて、一つ跳び越える。その机が、あたしのすぐ後ろで大きな音を立てて大破する。椅子が飛び散る。面倒になったのか、悪魔は避けずに突っ切ることにしたらしい。中村先生が泣くぞ、と、理科担当のひょろひょろした先生の泣き顔が思い浮かんだ。
 理科室の前扉から再び廊下へ。もと走っていた方向へ廊下を駆ける。壁の角を掴むようにして曲がり、今度は階段を上へ。いつもなら息が切れていそうなのに、あたしの身体は今、風みたいだった。後ろから聞こえる轟音も、感じる揺れも、あたしを止めない。この冬の守本神社での階段トレーニングが効いたのか、単にランナーズ・ハイなのか、どっちだろう。
 そのまま三階へ駆け登る。二階には音楽室があるから、なるべく避けたい。うん、三階のどこかの教室でUターンして、もう一度同じ、音楽室側じゃない階段を降りて逃げ続けよう。
 あっという間に三階に到着する。よし、とさらにギアを入れようと踏み込んだとき。
 後ろから、風を切る音がした。
 振り返ろうとしたあたしの顔のすぐ横を、黒い一閃。
「うぎゃあ!?」
 思わず身を引く。けれど黒い――腕は、あたしを追い越し、……あたしが向かおうとした三階の廊下を貫いた。
 貫いた一点から衝撃が生まれ、硬い廊下が崩れ落ちた。廊下の幅いっぱいに、穴が開く。
 って、ちょっとちょっと、何してくれてんの、この悪魔!
 ……。
 三階の廊下、行けない。
 降りる階段、悪魔が来てるから、無理。
 残ってる道は、……屋上への階段だけ。
 イエス、ディスイズ行き止まり。
 ……うわあああ、しまった、あたしの阿呆――!
 それでも道は一つしか残されてなくて、慌てて進む方向を変えて屋上への階段を登る。幸いなのは、この先の扉の鍵は昨日伊吹さんが持ち帰ってしまっており、開きっぱなしだということだ。
 ドアを開け、屋上に飛び出る。冬の曇り空の下、全然発電していない太陽光発電パネルが並んで光っている。その隙間を縫って走る。
 けれど、さっきまでの廊下や教室とは違い、広い空間に出た悪魔は、本領発揮だった。鬱憤を晴らすように屋上の扉を豪快に破壊して登場し、皮膚がしびれるくらいに大きく叫び、大空に舞い上がる。
 あたしは狭い屋上の端へ、辿りついてしまった。
 フェンスを背に振り返る。羽を広げる悪魔が、まるであたしと世界を覆うほどに大きく見えた。
 ちらりとフェンスの向こう、下を見る。フェンスを越えた先は、校舎裏の北庭の砂利道だった。うわあ、クッション要素が全然ないし……三階建ての屋上って、地面から何メートル離れてるんだろう。いや、案外、頭から落ちなければ大丈夫なんじゃないかな。うん、きっと大丈夫、大丈夫……。大丈夫だ!
 ちょっと泣きそうになりすぎて笑いかけていた顔を引き締める。後ろ手にフェンスを掴み、逆の手で最終兵器を握りしめる。
 咆哮する悪魔の手から、無数の腕が生える。あたしは力を溜めるように腕を一度曲げ、屋上の床を蹴ろうと――。
「のばら!」
 割り込んできた女の子の声に、あたしははっと顔を上げた。
 壊れた屋上の扉を出たところに、見覚えのある姿。――明日香ちゃんが、一人でそこに立っていた。
 って、どうして明日香ちゃんがここにいるの!?
「あっ、明日香ちゃ、何して」
 悪魔に追いかけられてたときより、今の方がよっぽど動揺していた。
 何、何!? さっきはもう明日香ちゃんの姿がなかったから安心していたのに、まさかあたしを探して戻ってきたの!?
 対する明日香ちゃんの顔からは、さっき見た怯えた表情なんて消えていた。少し怒ったような顔をして、無言であたしの方へ歩いてくる。
 どうすればいいのか分からなくて、目の前の光景をただ見ていると、ふと明日香ちゃんが足を止めて振り返った。階段を駆け登ってくる靴の音が二人分聞こえる。
「のばら、無事か」
「原さん、だっ、大丈夫!?」
 伊吹さんの肩に掴まりつつも最後は追い越して、高橋が。そして屋上の風景が見えた瞬間手すりにしがみつきそのまま伝うようにして、伊吹さんが現れた。あたしの姿を見て一瞬肩の力を抜いた高橋が、次に、悪魔と、自分の目の前にいる明日香ちゃんを見て、眉根を寄せた。伊吹さんが声を上げる。
「初瀬さん……!?」
 明日香ちゃんは、伊吹さんの呼びかけには答えなかった。再び歩みを進め始めた明日香ちゃんは、屋上の真ん中辺りで、くい、と顔を上げた。視線の先には、空に浮いて腕を伸ばしかけたまま、明日香ちゃんを見下ろす悪魔の姿。悪魔が大きく羽ばたく。
「ちょっと、初瀬さん、危なっ……!」
「――シェラタン、戻って!」
 伊吹さんの声を遮って言うと同時に、明日香ちゃんがぱちんと指を鳴らした。