第二章 交わるマイワールド
2.彼女と悪魔と最終兵器−1
「……寒っ」
何が嬉しくて、こんな寒い日に体育館で突っ立ってなきゃいけないんだろう?
防寒具着用許可なんて気休めにしかならないです。教室でぬくぬくしていたいです。寒いのは登下校時だけで結構です。
「寒いよお、のばら」
マフラーも手袋もコートも身につけた明日香ちゃんが、震えながら振り返ってあたしに訴えた。明日香ちゃんの手には、ばっちり膝かけも握られている。それは、コートしか着てこなかったあたしへの嫌がらせか。
ああ、早く始まれ。そして終われぇ! 寒い上に眠いんだ。昨日は結局、日が変わっても宿題が終わらなかったんだから……!
願いが通じたのか、ちょうどマイクのスイッチが入った。教頭先生の声。
「只今より、守本中学校、三学期の始業式を始めます」
明日香ちゃんが前へ向き直りながら、またぶるっと震えた。
冷たい床の上に立って、校歌斉唱、校長のお話。いつもよりも早く終わっていく。ありがとう、校長先生! いつも話が長いとか言ってごめんなさい、今日は四分だった、愛してる。
さあ、あとは教頭先生が閉式の辞を述べて、それで終わり! よし、教頭先生がマイクの前に出てきたぞ!
「……さて、ここで、皆さんにお知らせがあります」
あれ?
まだ続くのか、この修行みたいな始業式。そんな空気が全校生徒の間に流れる。伝わったのか、教頭先生は「はいはい、皆さん」と言ってから、話を続けた。
「本校の音楽の授業を担当している鈴木先生について、知っている生徒諸君も多いと思いますが、妊娠されていまして、三学期からお休みされることになりました」
ああ、そういえばそうだった。あたしは今年一年間音楽委員だから関わりも多かったし、けっこう好きな先生であったから寂しいなあ。いつ復帰するんだろう? それはともかく、休職ってことは、新しい先生が来るのかあ……。
「鈴木先生がお休みされている間、臨時で講師の先生に来て頂くことになりましたので、紹介いたします」
不意に、前の方からざわめきが聞こえた。主成分は黄色い声。なんだなんだ、かっこいい先生でも来たのかな? 残念ながらあたしの名字は「原」で、名簿番号が三十二番。ひとつ前、「初瀬」の明日香ちゃんと一緒に、頑張って背伸びをする。でも、中学二年生女子二人にとって、すぐ前の名簿番号三十一番の根岸(ねぎし)くん(百七十三センチメートル)をはじめとした男子たちは厚い壁だ。明日香ちゃんは軽く跳び始めた。よし、あたしもつま先立ちで、なんとか……。
「はいはい、静かに。それでは、少しですが、新任の高橋ノディ先生に、挨拶をしていただきましょう」
浮かそうとしていたかかとは、中途半端な位置で止まった。
……今、何て言った?
「聞いたっ、ノディ先生だって、ハーフの人なのかな、のばら。あ、壇上に登ってくよ、でも遠くて顔が見えないー」
うん、ハーフか外国人なんだろう、名前からして。そのうえで、名字が高橋。
……この冬休み、っていうかつい昨日まで、あたしのことを何かと勘違いして、突然あたしを魔物退治というファンタジーに誘った奴が、そんな名前じゃなかったか。そんな見た目じゃなかったか。
いや、まさかね。だってあたしは今、三学期の学校という現実に立っているんだから! そんな、ね! 聞き間違いだよね!?
混乱する頭を抑えつけて顔を上げる。
壇上に立つ、一人の男性。教師らしくスーツを着ている、金髪碧眼の、あれは。
「この度、守本中学校で音楽の授業を受け持つことになりました、高橋です」
……どうしてお前がここにいる。お前はエクソシストじゃなかったのか、高橋――ッ!!
「かっこよかったねー、音楽の先生!」
「えー、わたし後ろだから見えなかったー! 音楽の授業って何曜日だっけ?」
「明日香ちゃんは『初瀬』だもんねえ。音楽……は、金曜日の五限?」
「やった、明日! わたし、一番前の席に座る!」
始業式が終わって、教室中、高橋「先生」の話題でもちきりだった。……訂正。あたし以外の皆は、もちきりだった。「寒い」を連呼していた皆は、とても元気になっていて。あたしは一番後ろの廊下側の自分の席で突っ伏して、皆元気だなあ、ところで今日は寒いなあ、と半笑いで思っていた。
「若そうだったよねー、かなり。ね、明日香ちゃん」
「後ろだったから見えなかったんだってば! 何歳くらいだった?」
「二十代前半?」
「それくらいかなー」
「えー、そんなに歳近いの!? 明日の授業で聞く!」
「ちょっと明日香、抜け駆け禁止ー!」
突っ伏していても、耳には皆の声が入ってくる。
……そういえばあたし、高橋の年齢知らないなあ。年齢だけじゃなくて、他のいろんなことも知らないや……。
「はいはい皆、ホームルーム始めるわよー!」
ドアの開く音と担任の木村先生の声が、教室の喧騒を割った。おしゃべりをしながらも、皆が自分の席に戻っていく。
「ねー、のばら、のばらも明日の授業で高橋先生に何を質問するか考え……、のばら? どしたの? なんか元気ないね」
そういえば、あたしの前の席は明日香ちゃんだった。さっきの調子で楽しそうに話しかけてきた明日香ちゃんだったけど、あたしが突っ伏してることに気づいたらしく、顔を傾けて覗きこんでくる。
「……そんなことないよ……」
「そう? あ、そうだのばら、見て見てこれ!」
一瞬訝しげな顔をした明日香ちゃんは、思い出したかのように自分のかばんからファイルを取り出した。挟んであったのは、写真の束。
「じゃーん、この間の巫女バイトの写真! ほら、のばらもよく写ってるよ!」
「わー、本当だー……」
「……のばら、本当に大丈夫?」
顔だけ起こして、手渡された写真をめくっていると、明日香ちゃんがいよいよ心配そうに眉を顰めた。……確かにいつものあたしなら、巫女服で写っている写真なんかを渡されれば、突き返すか、逆に没収するかで、こんな風に大人しくは見ていないだろう。
次々と写真を見ていく。ああ、巫女服で、一応笑顔で写っている自分……。
あたしたちの巫女服姿が続き、しばらくすると、神社境内の風景の写真が出てきた。ぼんやりと光を放つ提灯。ピントを合わせづらいのか、靄がかかったように見える写真もある。その次、最後の一枚は、日中の街の風景。
「あ、違う写真が紛れてたね」
明日香ちゃんの手が伸びてきて、写真をすっと取っていった。
「で、のばら、……風邪でも引いた?」
「いや、元気元気。そう見えるかな、あはは……」
「うん。でも、高橋先生がよく見えなかったのはあたしも同じだから、元気出しなよ。あんた音楽委員なんだしさ、いっぱい関わりも出来るって。……あー、励ましてるつもりが羨ましくなってきた」
違うんだよ明日香ちゃん、高橋の顔なんてそれこそ冬休み中見てたから、そんなのどうでもいいんだよ。
「冬休みが明けたら学校も部活もあって忙しくなるし、きっとあいつとも出会わなくて済む、これで魔物回収事業とおさらばだ!」って思っていたのにそのエクソシストが学校に来やがったから元気がないんだよ、明日香ちゃん……。
……でも、どうして高橋はうちの学校に突然来たんだろう?
あいつはあれでも一応エクソシストだから、魔物退治のために来たんだろうか。あと思い当たったのは、昨日伊吹さんが言っていた、「この学校での任務」のこと。けれどどちらにしても、わざわざ音楽教師としてやって来る理由が分からない。ちょっと作戦Fという名の不法侵入をしちゃえばいいんだから。実際、昨日の夜、この学校に忍び込んだんだし。
……もしかして、少し、いやとてもずれている高橋のことだから、本当に音楽教師としてやっていたんじゃない……!?
ありうる。いや、本当にそうだったら全力で突っ込んでやりたいんだけど、でもありうるのが高橋だ!
それに、もしそうだったら。単純に音楽教師をしにやってきただけなんだったら、魔物回収ともおさらば!
なんだか、ちょっと望みが見えてきたんじゃない!?
「……の、のばら、どうしたの、急に笑い出して。そんなに音楽委員が嬉しかった?」
「ふへへへ……っと、なんでもないよ、へへへ」
危ない危ない、うっかりすると変な笑い声が零れる。へへ。あたしはまた突っ伏して、自分の気持ち悪い笑みを隠す努力をすることにした。まあ、あたしは音楽委員だから、音楽の授業の手伝いをしなきゃいけないっていう問題もあるんだけど、魔物退治の協力に比べたら百倍マシ! あたしは一般人なんだから、音楽の授業の準備と片付けは出来ても、世界の平和は守れない。守れないのだ。
その時、教室内がざわついた。どうしたんだろう? でもまだ笑顔が治まってなくて顔が上げられない。
「あら、高橋先生?」
そんなあたしの耳に、木村先生の声が入ってきた。
おかげでざわついた原因が分かったわけなんですけど、えーっと。
なんでだろう。なんだかとても、嫌な、予感がするのだ。
「どうかされましたか?」
「いえ、こちらのクラスの」
恐る恐る、目だけ覗かせてみる。
入口に立って爽やかな笑みを浮かべる、スーツを着た金髪碧眼の二十代前半(推定)男性と、目が、合った。
「原のばらさんに、用事がありまして」
――時はこんなにも優しく流れて、そして残酷だなあ、なんて。あたしはその時、詩人だった。
「……っ、高橋――っ!!」
高橋「先生」に連れてこられたのは、学校の北側にある裏庭。今はホームルーム中だから、当然周りには誰もいない。あたしは心おきなく、腹の底から叫んだ。
「どうした」
さっきのお仕事スマイルもきれいさっぱり消えた高橋が、見慣れた無表情で言う。
「突然叫ぶとは……ストレスでも溜まっているのか? ここの中学校の昼食は給食ではなく弁当持参らしいから、牛乳を摂取する機会が少ないのは分かるが」
「牛乳関係ねェェェェッ!!」
ストレスはお前のせいだ――!
「そうか? せっかく俺は今教師なんだし、この中学校に給食を導入する提案をしてもいいぞ」
「音楽教師に、給食に関するどんな権限があるんだよッ!!」
「でも音楽は素晴らしいぞ」
「だから何だ――ッ!!」
どうしてこんなに会話が噛み合わないんだ!
っていうか、あたしはさっきから突っ込み続けてるけど、突っ込むポイントはそこじゃない!
「なんで!」
「何がだ」
「なんで高橋があたしの学校にいるの!」
「音楽教師だからだろう」
「なんでそんな『当然だろう』みたいな顔してんのよ、そうじゃなくて! どうしてあんたが音楽教師になってんのよ、あんたはエクソシストじゃなかったの!?」
「この国では、エクソシストは音楽教師になってはいけないという法律があるのか?」
「お前は小学生か、何だその屁理屈は――ッ!!」
まずい、息が切れてきた……。
「大丈夫か、のばら」
高橋が表情を全く変えずに、あたしの顔を覗きこんでくる。
「……高橋に心配されたくないんですけど」
「そうか」
「うん。……って、何、自然な感じで会話終わらせてんだ!!」
危ない、また高橋のペースに持ち込まれるところだった。頑張れあたし、ここは追及しないと、あたしの平和な三学期が真っ暗だ!
「誤魔化されてたまるかっ! もう一回聞くよ、どうして高橋があたしの学校に来てるわけ!? わざわざあたしを呼びだしたところからしてどうせ魔物関係なんだろうけど、別に魔物退治なら不法侵入しとけばいいじゃん! いや、不法だから本当はだめだけど! わざわざ教師になって潜入してる理由は何よ!?」
高橋に邪魔されないように、一息で言い終える。当の高橋は、顎に手を当てて、……どうやらちょっと感心してくれてるみたいだった。
「なかなか鋭いな。さすが神の」
「巫女はバイト!!」
高橋が言い終わらない、かつあたしがフライングにならないタイミングで否定すると、高橋は軽く首を傾げた。よし、ナイスタイミング。……そのタイミングが分かるくらい慣れてきたんだって思うと、全く喜べないけど。
「まあ、それは後でじっくり牛乳を飲みながら話し合うとして。ホームルームが終わる前に説明し終わらないと、生徒たちが来てしまうからな。手短に言うぞ」
あ。少し、高橋の緑の目が鋭くなった。ちょっと真剣な話らしい。台詞の前半部分に突っ込みどころはあったけど。
「俺がこの守本中学校に来た理由。それは、この学校に用があったから。エクソシストとして、この学校に潜入する必要があったからだ」
「用、って」
「この学校に、対魔物用の最終兵器が隠されている」