第二章 交わるマイワールド
1.明日の夜、高いところで−5
 名を呼ばれた彼女――伊吹さんは、一瞬ぎくりと身を硬くして、けれどすぐに高橋をじろりと睨んだ。高橋が、右手の光を少し弱める。
 そう、目の前で、転がるほうきとバケツとチリトリの中でぺたりとお尻をついているのは、間違いなく、風紀委員長の完璧人間・伊吹さんだった。
「伊吹さん!? どうしてこんな時間にここにいるの?」
 あたしが思わず高橋の後ろから飛び出すと、伊吹さんはあたしをちらりと見て、今度は少しばつの悪そうな顔をした。すぐに視線は高橋の方へ戻って、鋭くなったけれど。
 ……風紀委員の仕事でもあったんだろうか? ううん、そんなはずはない、だって玄関や窓は全て閉まっていて、先生も生徒も全員帰っている時間なんだ。伊吹さんはあたしたちと同じく、どこかから侵入して、ここにいる。
 一体、どうして? それに。
「ちょっと高橋、どうして伊吹さんの名前、知ってるの!?」
「ん? ああ、お前たちも知り合いなのか」
 あたしと伊吹さんの服装を見比べて、高橋が言う。
「う、うん、学校が同じで、学年も一緒だけど。『お前たちも』って、……高橋と伊吹さんも、知り合いなの?」
 尋ねながら、そういえば、と思い出す。年始の神社バイトには伊吹さんもいたんだった。
 ……まさか伊吹さんも、そのときに目をつけられて、神の使いがどうこう言われて魔物退治を手伝わされてるの!?
 もしそうだったらそこに転がっているバケツを全力で投げつけてやろうかと思っていたら、高橋が頷き、口を開いた。
「知り合いだ。同僚だからな」
 え?
「……同……僚?」
 妙な言葉が聞こえた気がして繰り返す。高橋はもう一つ頷いて、あっさりと言った。
「俺と同じく、エクソシスト」
 ……。
 え、ええ!?
「いっ、伊吹さん、エクソシストなのー!? なんで!?」
 思わず伊吹さんを指差して叫んでしまう。声は思いっきり裏返っていた。
 でも、だって、だって、伊吹さんがエクソシストって、どういうこと!?
「な、なんでって、『なんで』は私の台詞だわ」
 あたしの大声に一瞬たじろいだ伊吹さんは、けれどすぐに気を取り直した。屋上の扉の壁に左手を添えて、立ち上がる。背筋を伸ばし、伊吹さんは正面から高橋を見据えた。
「どうしてあなたがここにいるの?」
 長い髪を風に揺らし、鋭い視線で。
「光原市近辺は私の担当。担当地域以外への介入は禁止されているはずよ。しかも一般人を連れて。どういうこと?」
 伊吹さんに問い詰められているのは高橋なんだけど、伊吹さんが怒っているとなんだかあたしまで悪いことをしている気分になって思わず高橋の袖を引っ張る。
「え、そ、そうなの高橋? まずいことやってんの!?」
「ほへはほうはは」
「って、何食ってんだお前ぇぇぇぇっ!」
 この状況で、よくものを食べようって気になったな!
 口の中のものをよく噛んで、しっかり飲み込んでから、高橋が言う。
「おにぎり」
「聞いてないから! そういう意味で言ってるんじゃないから!」
「え、海苔がついている? 悪いが、どこについているか教えてくれないか」
「聞き間違えのレベルですらねえよ、海苔の前に耳掃除しろ!」
「そうか。ところで海苔は」
「ついてません!!」
「それはよかった。ところで伊吹、何の話だったか」
 そして何事もなかったかのように伊吹さんに尋ねる。別にあたしは高橋の何かってわけでもなんでもないのに、なんだか申し訳ない気持ちにすらなってきた。
「……どうしてあなたがここにいるのって話よ。担当地域以外への介入、しかも一般人を連れて! どちらも禁止のはずよ、なのにあなたが突然この周辺をうろつき始めたから、一部始終を見させてもらったのよ。そうしたら『穴』まで消し出して。どういうつもり? 返答によってはただじゃ済まないわよ」
 伊吹さんが語気を強めて、指を高橋へ突きつけた。高橋は「ああ、そうだった」と頷いてから、頭を掻く。
「それはそうだが、別に、趣味でうろついていたわけじゃない。光原市近辺の『穴』が空きっぱなしになっているというから、命令で来ただけで」
「命令……?」
 すると、高橋の答えを聞いて、伊吹さんが一瞬うろたえた。どうしたんだろう、とよく見る前に、その色は伊吹さんの顔から消えていたけれど。
 伊吹さんが一つ咳払いして、高橋を睨み直す。
「……ま、まあいいわ。だけど、もう一度言うけれど、ここは私の担当なの。ここのところ『穴』の数が多かったから、手が回り切らなくていくつか消し切れていなかっただけで、何の問題もない。あなたの力は必要ないわ、私一人で十分よ」
 強い調子で言い切り、少し鼻を上げて、右手で髪をかき上げる。
 でもまあ、確かに、伊吹さんだったらなんでも優秀に一人で出来てしまうのだろう。はじめから最終手段をぶっ放し、マイペースにおにぎり食べてる奴とは違って。……って、今度はお茶を飲んでるし!
「いい、分かった? 分かったならさっさと本部にでも戻りなさい、一般人は帰して」
「それはそうと」
 伊吹さんの言葉を聞いているのかいないのか、高橋がペットボトルの中身を見ながら言う。さっき投げたせいですごく泡立ってるんだけど、それが気になるらしい。そして、顔はペットボトルを向いたまま、視線だけを伊吹さんに移す。
「光原市近辺の担当は、やっぱり伊吹だったんだな」
「……え?」
 いまいち的外れな返答に、伊吹さんは、怒らなかった。ペースを崩されたのか少しの戸惑いと、そして今度ははっきりと焦りの色が含まれていた。……どうしたんだろう? それに、
「ねえ高橋、『やっぱり』ってどういうこと?」
 ふと疑問に思って尋ねる。そういえば、伊吹さんを見たときも、高橋は「やっぱり」と言ったのだ。
 高橋が首を傾げる。
「ん? ……ああ、それは『穴』の残り方が」
「はっ、話を逸らさないでっ!」
 高橋の言いかけたことを聞いて、突然、伊吹さんが慌てたように遮ろうとする。
「い、今は、あなたがここから去るようにって話を……!」
 けれどその前に高橋は続きを言っていた。
「高いところの『穴』ばかり、残っていただろう」
 ……それを聞いて、あたしは、今日のここまでの道のりを思い出す。十四階建てのマンションの屋上、工場の煙突の上、あとはここ、学校の屋上。
「まあ、そう言われればそうかも……」
 あたしの返事を聞いて、高橋が頷き、ついには顔を真っ赤にしてぱくぱくと口だけ開け閉めしている伊吹さんを親指で指した。
「伊吹は高所恐怖症だからな」
 ……へっ?
「あと低所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症、酸っぱいもの恐怖症、犬恐怖症、ついでに猫舌、カナヅチ、花粉症。まんじゅうは怖いんだったか?」
「こっ、怖くないわよ! あとカナヅチじゃないわよ、浮けるし進めるわよ、息継ぎができないだけで! ってそうじゃなくて、だから話をっ」
「そうか、まんじゅうではなくもなかか。光原市周辺の担当が誰なのかは知らされていなかったのだが、高いところの『穴』ばかりが残されていたから、もしかしてその担当とは高所恐怖症の伊吹なのではないかと思っていたところ、当たっていたというわけだ」
「……そうなんだ……」
 伊吹さんを見ると、伊吹さんが真っ赤な顔で高橋を睨みつけていた。
「ちょっと、もっ、もなかも怖くないわよ!! 話を誤魔化さないでって、いっ、言ってるでしょ!?」
 そう言って、話を戻そうと、というか逸らそうとする伊吹さんは、でも噛んでいた。いつもの、常に余裕を持っている伊吹さんの面影がなくなっていく。そして言われてみれば確かに、伊吹さんは今もずっと壁に手を添えている。そうか、これ、高所恐怖症だからだったのか。
 あ、あれ、なんだか意外だなあ……。
 ぽかんと伊吹さんを見ていると、その視線に気付いたのか、伊吹さんが今度はあたしをぎりっと睨んだ。
「え、わああ、ごめん伊吹さん」
 あたしにまで飛び火してきたので、慌てて謝る。
「で、でも伊吹さんってすごく大人っぽいし、勉強とか運動とかも完璧だから、ちょっとくらい弱点があっても、それはそれで親近感湧くなーなんて」
「ああそうだ、伊吹、もう一つ質問があるんだが。お前、どうしてのばらと同学年なんだ?」
「え?」
「お前、高校生だろう」
「……はい?」
 あたしのフォローを遮って発せられた言葉に、あたしは真顔で、高橋と伊吹さんを交互に見てしまった。伊吹さんは今度は顔を白くして固まっていた。
「いや、だから、伊吹はのばらよりも三歳年上だ。のばらと同じ制服を着ているから不思議に思っていたんだが、さっきのばらが同じ学年だとか言うから、どういうことかと……、おっと」
 そしてついに、バケツが飛んできた。頭に向かって飛んできたそれを、ひょいっと首だけ動かして避ける。続いてチリトリが向かってきたけど、それも逆方向に避けて、最後に、ほうきを振りかぶり殴りかかってきた伊吹さんを、一歩右に下がって避けた。
「――っ、はぁっ、はぁっ……!」
 相変わらず表情の変わらない高橋に対して、ほうきを構えた伊吹さんは肩で大きく息をしている。
 ……えーっと。
 身体や性格が大人っぽいのは、実際年上だったから。
 三つ年上ということは中学校をとっくに卒業しているんだから、中学校の勉強がよくできるのは、当たり前と言えばそうで。身体能力もそうだろう。
 ……、伊吹さんって、イメージと違うどころか、なんだかとんでもない人なんじゃ……。
 何とも言えない気持ちになりながら伊吹さんを見ていると、どうやらそれが伝わったらしく、ほうきをぶんぶんと振り回しながら叫び出した。もはや、可憐で上品で完璧な伊吹さんのイメージが、ない。
「……っ、仕方がないでしょ、任務で守本中学校に潜入しなくちゃいけなかったんだから!」
「任務?」
「あっ、あなたには関係ないわよ! 極秘なんだから!!」
 大きく振り回されたほうきが、屋上のフェンスに当たり、鈍い音を立てる。大きく弾んだほうきの穂先が、そのまま高橋を指した。
「光原市の『穴』も、任務も、私の仕事なの! 今後一切手を出さないで、いい!? あなたも!」
 そしてあたしの方へも向く。勢いが強くて、ちょっと通りすぎて、また戻る。
「こっ、このことを他の生徒に言ったら、たっ、ただじゃおかないからっ!」
「は、はい!」
 思わず返事をすると、伊吹さんはもう一度あたしと高橋を鋭く睨んでから、屋上の壁を伝い、大股の早足で扉の向こうへ消えていった。
 扉が大きな音を立てて閉まる。
「……ほうき、持って行ってしまったな」
 姿を見送っていた高橋が、ぽつりと呟いた。……あ、本当だ。
「……まあ、屋上のほうきなんて滅多に使われないし、いいんじゃないかな……」
「そうなのか、それならよかった。さて」
 高橋が屋上の扉から目を逸らし、振り返る。
「どうやら俺が見たのは、伊吹が隠していた『穴』だったようだな」
 右手の人差指で太陽光発電のパネルを指差し、低い声で呟くと、じわり。滲んで広がるように、パネルの上に黒くて暗い「穴」が現れた。
 そっか、高いところに行けなくて、消すことができていなかった「穴」を、伊吹さんはばれないように隠していたのか。
「慌てて隠したからか、隠し方が雑だが。……はい、最終手段、っと」
 すごく気軽に最終手段を唱え、光が降り注ぐ。「穴」はあっさりと見えなくなった。
 ……あれ? でも、屋上に来るだけで伊吹さんはあんなに怖がっていたのに、よく「穴」を隠せたよなあ。っていうか、隠せるなら、そのまま消しちゃえばいいのに。
「それにしても」
 その右手を、そのまま口元に当て、高橋が再び視線を屋上の扉へ向ける。
「……任務でこの学校へ潜入、か」
「守本中学校に、何かがあるってこと? でもただの、何の変哲もない公立中学校だよ」
 尋ねると、高橋は首を横にひねった。
「確かに、そういう話は聞いていないな。伊吹が任されているくらいだから、大した問題ではないと思うが」
「最終手段しかぶっ放さないあんたが何言ってんのよ」
「俺は高いところも犬も平気だぞ。ハムスターは苦手だが」
「ハムスターより、明らかに犬の方が怖くない!?」
「いや、昔、ひまわりの種をあげていたら、放すタイミングを間違えて噛まれた。あれは痛かったな……」
 昔を思い出してなのか、高橋が遠い目をする。思い出してる内容は残念だけど。
 その目が、ゆっくりと細められる。
「高橋?」
「……いや、何でもない」
 呼びかけると、首を振って、歩き出した。
「そろそろ帰らないといけないな。思っていたよりも時間がかかってしまった。伊吹のせいだな」
 高橋を追おうとして、……その言葉を聞いて、あたしはふと足を止めた。なんだろう、すごく大事なことを忘れている気がする。「時間がかかった」。なんとなく、自分が持っている通学カバンを見る。……急いで適当にものを詰め込んで、かたちが崩れた通学カバン。どうしてそんなに急いでいたかっていえば。
 ――そうだ、冬休みの宿題!
「たっ、高橋、今何時!?」
「今か? ……ああ、もう九時だな」
 九時! 明日の朝、始業式が始まる八時半まで、いち、に、……十一時間! これはまずい! まず十一時間っていうのが宿題をするのに十分なのかそうじゃないのかが分からないっていうのがまずい!
「しかしもう九時とは。寝る時間だな」
「どこの小学生よ、その就寝時刻!」
 あたしは高橋のせいで残っている宿題のおかげでまだまだ寝れそうにないっていうのに、くそ、こいつ……!
「早寝早起きだからな。明日の朝は二時に起きるし」
「それ、もはや朝って時間じゃないけど!? ああもうそれはどうでもいい、早く降りて高橋、あたし急いでるから!」
 騒ぎながら、あたしと高橋は縦に並んで階段を降りる。そういえば息吹さんが鍵を持ちっぱなしなので、屋上の扉は開いたまま。
 高いところをあとにして、あたしたちは夜を降りていく。明日の朝が近づいてくる。