第二章 交わるマイワールド
1.明日の夜、高いところで−4
 学校へ侵入するのは、煙突よりは随分楽で、マンションよりはもう少し不法な感じだった。警備員さんも先生も帰っていて、閉じられていた一メートル強の門を越えて敷地内に入るところまではあっさりできたんだけど、校舎に入るところで苦労したのだ。玄関のドアは全て鍵が閉められていた。玄関周りは特に鍵を厳重にチェックしてあるらしく、ドアだけじゃなくて窓も全て。結局、玄関から見て校舎の逆の端にある一階のトイレの窓から身体をねじ込んだ。
「よく、窓が開いていることを知っていたな」
「ここのトイレ、あたしのクラスが掃除の担当なんだけど、大体いつも閉め忘れてるから」
 不用心だとは思うけど。
 少し身を縮めながらトイレを出る。
 静かだ。
 左手には特別教室が並ぶ廊下が続いている。まっすぐ進めば体育館だ。正面は階段。廊下の窓と階段の踊り場の窓から、淡い光が入りこみ、重なっている。光が当たらないところの暗さがより目立つ。こんなに静かで暗い学校、初めてだ。廊下の時計はよく見えないけど、多分今はもう七時を大きく過ぎている。
「それで高橋、何がいたの? どこに?」
 話せば、自分の声が大きく響く。
「屋上だ。何かはよく分からなかったが、『裏』に関連する何かがいたと思う」
 あたしの声の響きの残りに高橋の声が重なって、変な感じだ。
 まっすぐに進み、階段を登る。
「……この学校の屋上に『穴』があるとは聞いていた。あまり人の立ち入らない場所にあるから後回しにしようと思っていたのだが、……『穴』の気配はなく、代わりに妙な何かがあった」
「魔物、とかでもなくて?」
「分からない」
「ええっ、何それ!」
 夜の校舎ってだけで不気味なのに、何か分からないものがあるなんて。
「こんなところ、歩きたくないんだけど……。ねえ高橋、屋上が目当てなんだったら、また飛べばよかったんじゃないの?」
「煙突の上へは飛ばなければ行けないが、学校の屋上には歩いてでも行けるだろう。体力も使うから、飛ばずに行けるならそれに越したことはない」
「……もしかして重かった?」
「何がだ?」
「……何でもない」
「そうか」
 二階に着く。静かな職員室がすぐそこに見える。廊下を進めば、静かな教室が並んでいるんだろう。
「あ、そうだ高橋」
 ふと思い出してあたしは声を上げる。
「屋上に行くなら、鍵を取ってこないと」
 このまま階段を登っていけば屋上に着くんだけど、屋上に出るためのドアは、生徒が勝手に入り込まないように閉められているはずだ。多分鍵は職員室にあるんじゃないかな。ああでもしまった、職員室は玄関の真上にあるから、こっちの階段からだとちょっと遠いな。
 職員室の方を見るために廊下を覗き込もうすると、高橋が上を向き、手であたしを制止した。
「……いや、扉は開いている」
「開いてる? ……って、ええっ!?」
「誰かがいるのか」
 何かじゃなくて、鍵を使って扉を開けて屋上に出るような、誰か。
 急に背筋がぞくぞくと震えた。魔物より人間が怖いっていうのもおかしな話なのかもしれないけれど。
「少し妙だが、まあいい」
 高橋はそれだけ言って、黙ったまま、まっすぐに上を見つめ、階段を登っていく。
 何がまあいいんだよ、全然よくないよ! あたしは慌てて追いながら、ちょっと泣きそうになってきた。どうしてこんなときに黙って真剣な雰囲気なのよ、こういうときこそ神の使いだの「ぴょん」だの言ってよ馬鹿ぁ!
 あたしの願いはちっとも届かず、張りつめた空気で無言のまま、三階を通り過ぎ、屋上の扉の前の踊り場へ辿りついてしまった。
 扉は、僅かに開いている。高橋が伸ばした手がノブに触れる直前に、風で、扉が、ゆっくりと開いた。
「ひいっ……」
 喉のどこかから、妙な高い声が出てくる。なるべく高橋の影に入るように身を縮めながら、あたしは高橋に続いて屋上に出た。
 守本中学校に入学してから、屋上に出るのは初めてだ。
 胸くらいの高さのフェンスにぐるりと囲われている。いくつか置かれた太陽光発電のパネルで、狭い屋上はほぼ埋められている。あとは、掃除用具を入れる縦長のロッカーが、扉のすぐ脇に置いてあるだけ。ロッカーは空っぽだ。ふと上を見ると、今出てきた扉の上に、ほうきの穂先が飛び出ているのが見えた。掃除をしていた人が、片付けが面倒で、ぽいっと扉の上に置いたんだろう。
 それだけ確認したら、もう顔は高橋の背中の後ろに引っ込めた。見なくていいものは見ないのだ。
「……ねえ高橋、誰かいる? 何かある……?」
 意味もなく左右と、あと斜め後ろくらいを見ながら聞く。前は見ない。
「特に何も、……いや」
 高橋が急に足を止めたので、背中に頭がぶつかって、潰れたカエルみたいな声が出た。
「『穴』がある、……のか?」
 恐る恐る、片目のあたりだけを、首を傾げる高橋の後ろから出す。けれど、さっき見たような真っ暗な平面は見つからない。
「どこ?」
「いや、気のせいかもしれない。今、見えなくなったから。そのパネルの一部が、僅かに暗く見えたんだが」
 上を見てみれば、高橋が目を細め、首をひねっていた。
 この暗さの中でもつやつやと光る太陽光発電のパネルを、目を細めて見る。……うーん、分からない。暗いから、何かがあると言われればそう見えるし、でも瞬きすれば何もないようにも見えるし。
「不用意に近付かない方がいいのかもしれないが、仕方がない。少し進むぞ」
「うえっ、進むの……!?」
 うう、帰りたい。宿題とか関係なく、帰りたい。でもここから一人で帰るなんてありえない。結論、高橋の後ろに隠れながらとにかく進むしかない。
 足音も立たないほどゆっくりと、あたしたちは揃って進む。
 車の走る音、近くの道を通る人の声、下から聞こえるそれらは遠い。
 ――そのとき。
 突然高橋が真後ろを振り返った。
「ぎゃあ!?」
 思わず奇声を上げて飛び退き、それから改めて高橋にしがみつき直すという非効率極まりない反射行動をしたあたしとは対照的に。
「そこか」
 高橋は一歩踏み込んで、流れるような動きで振り返りながら、マントの下へ右手を突っ込む。
 高橋にしがみついていて同じ方向を見ていたあたしは、揺れる視界の中で、正面、つまりものを投げようとしていた「そこ」に人影を、見た。さっきあたしたちが出てきた屋上の扉の脇に、人が、いる!
 高橋の右手が何かを掴み、大きく振りかぶって、思い切り、それを投げつける。振り降ろされた腕は風を切り、音を立てる。放たれたそれはものすごいスピードで、
「あ」
 ……正面ではなく、左斜め六十度くらいの方向へ飛んでいった。
 高橋は野球でピッチャーがボールを投げ終えたときの姿勢のまま。あたしは高橋の背中にしがみついていたので中途半端に中腰の体勢のまま。そしてそこに見える人影は頭を庇おうと腕を前に出しかけた格好のまま、ぽかんとその軌道を見ていた。
 投げられた何かは、屋上のフェンスに当たって、減速してもまだ速いスピードで斜め上へ跳ね返る。ぐしゃりという鈍い音がしてからぽおんと浮かび上がり、人影の上を通り越して、屋上の扉へ。上にはほうきが載っている。その穂先は、人影の方へ飛び出ていて。
 投げられた何かは、ほうきの穂先を掠めた。穂先が押され、てこの要領でほうきが立ち上がる。ガシャン、と大きな音がした。ほうきの柄には、長い間放置された間に引っ掛かっていたらしい、金属製のバケツとチリトリがついてきている。
 ほうきの柄と、バケツとチリトリが、加速しながら落ちていく。屋上の扉のすぐ傍にいた、人影へ向かって。
 そこでようやく、あたしと、そしてその人影は、気付いた。けれどもう遅い。バケツとチリトリが狙い澄まして落ちていく。人影がよろめき、一緒にコンクリートの地面へ。
「え、え、えっ、……きゃああああっ!」
 悲鳴は、それよりも大きな金属製のバケツとチリトリがコンクリートに落ちる音で、見事にかき消された。一拍遅れてほうきも、数回跳ねて、転がった。
「……えーっと……」
 ほうきの転がるのが止まったのを見届けて、あたしは声を出す。
 高橋が無言で体勢を起こした。何かを投げた右手を見て、それから一つ、頷く。
「狙い通り」
「絶対嘘だろ!!」
 何だよ今の、高度なドミノ倒しみたいな出来事は!
「のばら、運も実力のうちだぞ」
「自分で運だって言っちゃってるし! やっぱ狙い通りじゃないんじゃん!」
「しかし、俺だって努力して運を味方につけているんだ。そうして得た運ならば、実力と同一視していいのではないだろうか」
「……一応聞くけど、どんな努力してるの」
「早寝早起きをする、交通事故には気をつける、休みだからと言ってはしゃがない」
「なんで冬休みのしおりなんだよ!」
 それで運がよくなるなら、世の小学一年生は全員おみくじで大吉引いてるわ! 巫女バイト中に見かけた、凶を引いちゃって泣いていたあの女の子に謝れ!
「ああ、それで気付いたのだが、もう八時前か。早寝するためにも、そろそろ、目の前のこれを何とかした方がいいな」
 左手首にはめた腕時計を見て、高橋が歩き出す。
 そうだ。バケツとチリトリをまともに受けて倒れている人影が、そこにいるんだった。だけどそういえば、聞こえた悲鳴は、女の子のものだった。それに、聞き覚えがあるような……。
 高橋は人影にすたすたと近付き、まず手前に転がるペットボトルを拾い上げた。投げたのは、どうやら、コンビニで買っていたお茶だったらしい。それをマントの中へまた仕舞って、高橋が右手に光を灯す。
 ぱあっと、周りが明るくなった。
 転がるほうき、バケツ、チリトリに囲まれて、……女の子がうつ伏せに倒れていた。あたしと同じ、守本中学校の制服を着ていて、長く黒い髪とひざ丈のスカートがコンクリートの上で無造作に広がっている。
「うーっ……」
 女の子が動いた。もぞもぞ、と身を起こす。
「……い、たたたた……、何、」
 可憐な声で言いながら、頭を押さえ、彼女は、顔を上げた。
 ――あ。
 その瞬間、自分を照らす眩しい光に目を瞑り、身をすくめる。
「きゃあっ、眩しッ……」
「やっぱりお前か」
 白い光の元、はっきりと浮かび上がった彼女の姿に向かって、高橋は一つ息を吐き、名を呼んだ。
「伊吹花折」