第一章 あたしと魔物とエクソシスト−3
 走る。走る。真っ暗な道を、全速力で。
 あたしがこんなに必死で走ってるっていうのに、身体のサイズ同様に一歩で進む距離も大きいデネボラとの距離は、全く広がらない。むしろ後ろからのプレッシャーは迫ってきている!
「たかっ、はしっ、ちょっと、まずいって、まずいってぇぇ!!」
「そうだな」
「ちょ、お前っ、どうしてそんなに余裕なの!? って、あああ」
「あ、行き止まりだ」
「なんでそんな、あっさり――!!」
 暗い中を無茶苦茶に走っているうちに、目の前にはブロック塀の行き止まりが迫っていた。こんな塀、すぐに乗り越えられるわけがない。
「嘘だぁぁぁっ!」
「嘘じゃないだろう。現実を見ないと」
 見たくない、こんな現実! けれど残念な現実はすぐ目の前にある。
 あたしたちはついに足を止めた。ブロック塀に張り付くまで近付いて、……これ以上は進めない。
 振り返ればそこには、赤い目を間違いなくあたしと高橋に向けているデネボラがいた。
「たっ、高橋、どうするのよ……」
 すがる声は裏返る。高橋はあたしの方をちらりと見て、小さく頷いた。
「ここはお前に任せた」
「はぁあ!?」
「だって神の使いだろう」
「何回も何回も言ってるけど、だからバイトなんだって!」
「じゃあ神の使いじゃなくてもいい。この際、昆布の使いでもいい。昆布フラッシュ、とかやってくれないか」
「絶対無理だし、絶対嫌だぁぁぁっ! なんで昆布なんだよ、語呂も何も合ってねえよ!」
「いや、今朝ホテルの朝食で出た昆布の佃煮が美味しかったから……」
「お前の朝ご飯と今の状況にどんな関連性があるんだよ馬鹿――!!」
 もう、こんなふざけた会話をしてる場合じゃない! デネボラが迫ってる!
 近付く魔物は、唸りながら、大きく口を開ける。牙と、その奥の闇が見える。
 そしてゆっくり、覆いかぶさる――。

 ……あたしは途中から思わず目をつぶったけど、その直前まではきちんと見ていた。
 確かにデネボラがあたしたちに覆いかぶさったのを、見た。はずなのに。
「……なんで」
「何がだ」
「すり抜けてるの」
 あたしたちは無傷だった。覆いかぶさられる前と同じポーズで、同じ場所に立っていた。ただ、周りがなんとなく薄黒い霧に覆われているように見える。霧の輪郭は妙にはっきりしていた。その形は、大きなライオン。
 ……あたしたちは、すり抜けた魔物の中にいた。
「ああ、『裏』に棲む存在である魔物は、こちらの世界では不安定で、はっきりした形を持たないから。すり抜けることができるぞ」
「早よ言えやぁぁぁぁっ!! じゃあどうしてあたしたちはあんなに必死で逃げてたのよ!!」
「いや、デネボラが追いたそうにしていたから、逃げてあげるべきかな、と」
「何、そのデネボラに対する妙な配慮!?」
 あたしにも配慮してよ、別に怖い思いをする必要なんて何もなかったんじゃないかー! 異世界の怪物のお腹の中にいるっていうのに、何の影響もないし!
 ……あ、でも、ちょっと手や頬に、弱い静電気のようなぱちぱちとした感覚がある。何だろう、これ。
「それにしても、魔物の中は腰にいいな」
「……、腰?」
「炭酸水を飲んだ時のようなぱちぱちとした、あるいは弱い静電気のような、そんな刺激が手や顔に感じられないか?」
「……そういう感じ、あるけど」
「魔物と俺たちは異なる世界の存在だからな。密着していると、存在のずれが原因となってこのような現象が起こる。今はデネボラの存在が不安定だから、現象も少し弱まっていて、ちょうど気持ちがいい程度だな。効能は肩こり、腰痛、肌荒れ。ただし、長く浸かっているとのぼせるから、体調には気を付けるように」
「温泉じゃねえか!!」
 異世界の怪物のお腹の中にいるっていうのに、何の影響もないどころかお肌にいいって何事なんだよ!!
 それでも確かに少し肌がすべすべしてきたような気がしてきて、複雑な気持ちになっていると、高橋が一つ頷いた。
「そう、長く浸かっているとのぼせる。つまり、魔物を何とかしなくてはならないという状況は変わらないだろう」
「それはそうなんだけどー……」
 魔物に覆いかぶさられた状態のまま、アスファルトに座り込んで、あたしたちはこれからについて相談を始める。
 どうやら、標的を見失ったデネボラはすっかり落ちついたらしく、顔を掻いたりのびをしたりしているのがここからでも見えた。……こいつ……。
 いや、デネボラにも高橋にも腹が立つけど、今は解決策を探ろう。
「さっきのひょろひょろの光でも、デネボラの中にいる今ならはじき返されたりはしないだろうから、効果があるんじゃない?」
「いや実は、俺はあれがとても苦手で、あれでも上手くいった方なんだ。俺は狙いを定めるのがどうにも下手で、あっちに行ったりこっちに行ったり、酷いときには光の代わりになすびが出てきたり」
「命中率となすびに、一体どういう関係があるんだよ!!」
「そうだよな。なすびよりも、かぼちゃやきゅうりの方が、命中率が低いイメージがあるよな」
「ねえよ!! 野菜に対して命中率のイメージなんてねえよ!! そんなに下手って、エクソシストとしてどうなんだよ!!」
「エクソシストでもこんなものだと思うと、お前も出来る気になってきただろう?」
「何、その無理矢理な勧誘!! 全然出来る気にならねぇよ、実際出来ないし!」
「出来ると思うんだが。……そうだ」
 突然ポケットをごそごそと探り始めたかと思うと、高橋は牛乳を取り出した。どうしてポケットに入ってるんだ! しかもどういうつもりで!?
「牛乳を飲むと強くなるそうだぞ」
 だから何だぁぁぁっ!!
「だから、牛乳を飲んでデネボラと戦え」
「無理だぁぁぁぁっ!!」
 いくらカルシウムを含んでても関係ねェェェ!
「そこのコンビニで温めてきてあげるぞ」
「温度は関係ないからぁっ!」
「角砂糖は何個入れる派だ? 俺は十個入れるんだが」
「砂糖も関係ねぇぇっ、っていうか十個は多いだろッ!! そんなに言うなら自分で飲んで自分が強くなっとけ、この馬鹿ぁ!」
「そうか……そこまで牛乳が嫌いか」
 いや、どっちかと言えば好きだけど! 好きだけど、そうじゃなくて!
 そろそろ一発くらい殴りたい、と構えかけたとき、高橋が前触れなく立ち上がった。
「仕方がない。これは使いたくなかったが」
「……え?」
 目を伏せてそう言った高橋に、あたしは思わず小さな声で聞き返していた。
 聞き返して、手を伸ばしかけて、けれどそれ以上近付けない。
 明らかに空気が変わっていた。
「た、高橋……?」
 下ろした右手を、きゅっと握り、静かに掲げる。緑の目が開く。
「最終手段だ、……発動」
 そう、高橋が呟いた瞬間に。
 空から光が降り注いだ。

「何……これ……」
 真っ黒な空から、この街を包むように、薄く白い光が射し込む。ゆったりと波打つ光は、いつかテレビで見たオーロラのようだった。
 それは本当に、綺麗で、……綺麗で。
「魔物をあるべきところへ返すための、最終手段だ」
 高橋が光を仰ぎながら言う。金色の髪が、光の中で透けるように輝いていた。
「へっ……? 最終手段?」
 聞いた言葉をそのまま繰り返す。
 最終手段。打つ手がなくなったときの切り札。
 そしてあたしははっとした。
 ――最終手段って、何、どういうこと!?
「ちょ、ちょっと待ってよ高橋!」
「……ん?」
 高橋がゆっくりと振り返ろうとする。光に包まれたその姿が、高橋のくせに――美しくて、なのに妙に不安で、まるでそのまま消えてしまいそうに見えて、あたしは思わず立ち上がり、そのまま高橋のマントに両手でしがみついた。
「だって、最終手段って! それって最後まで残しておく手段なんでしょ、つまり最後まで残しておくだけの理由があるんでしょ!? た、例えば高橋が危ない目に遭うとか、まさか何かを代償にしなくちゃいけなかったりとか……!」
 自分の口から出てきた言葉を聞いて、今さら背筋がぞくりと震えた。脳みそがとんでもない方向にぐるぐる回って、それ以上言葉にならない。
 口をぱくぱくと、開けたり閉じたりするしかできなくなったあたしを、振り返りかけた格好の高橋がじっと見ていた。やがて、口を開く。
「……いや、別に?」

「はい?」

「いや、だから、『最終手段』だからと言って、一生に一度しか使えないだとか、使えば三日三晩寝こむだとか、そういったことは全くない。やろうと思えば、五分に一回くらいの頻度でなら連発できるし、使った後はほどよい疲労感でよく眠れる」
 あっさりと、あたしの怖れは否定された。
 余計に口をぱくぱくさせながら、なんとか尋ねる。
「……え、じゃあ、どうして『最終手段』……?」
「それは、ほら」
 高橋が上を指差した。未だに、薄い白い光は空を覆っている。
「これだけ光り輝いていると、さすがにご近所に暮らす方々に『何だこれは』と気付かれるリスクが高くなってしまうだろう。だから、最終手段」
 なんだその理由は!
「俺は狙いを定めるのが苦手なだけだから、これだけ広範囲に光を発生させれば間違いなく仕留められる。しかしことが一般人に知られると面倒なことになる。悩ましいな」
 あたしの想像と全く方向の違う答えに、けれど納得はさせられてしまって、あたしはマントを握っていた手でそのまま高橋の腰辺りをぱしぱしと叩いた。全然力が入らない。
「あ……あたしの心配を返せ、今すぐ返せぇ!」
「……心配していたのか?」
 真顔のまま、高橋が首を傾げる。不思議そうに。それに不意をつかれて、あたしは一瞬、「高橋を叩く」という行動を忘れてしまった。そして思い出したとき、あたしの脳は「蹴る」という命令も追加していた。
「うるさい、とりあえず返せ!」
「心配し返せばいいのか? しかしお前の何に対して心配すればいいのかがさっぱり分からない。すまないが、心配と釣り合うような、別のもので勘弁してくれ」
「べっ、別のものって何よ……」
「電卓十個くらいで許してもらっていいだろうか」
「そんなに電卓ばっかりいらねえよ!!」
「難しいな、後で改めて考えよう」
 ああ、本当、何だったんだろう。心配する必要なんてなかったんじゃない。心配していたって認めるのが腹立つくらいだ。……そうだよね、目の前で「最終手段」なんて言われたからびっくりしたけれど、高橋は空から降ってきて光を放っちゃうエクソシストだもんね。あたしはここに立ってはいるけれど、右手から光もなすびも出ない、巻き込まれただけの中学生だしね。超一般人、「超」は「一般」までだけを修飾するのだ。
 こっそりため息を吐く。それを聞いているのかいないのか、高橋は変わらない口調で「さて」と言い、辺りを見回した。
「そろそろ、半分くらいか」
「え?」
 高橋の動きにつられて、あたしも周りを見る。
 いつの間にか、あたしの周りにあったはずの薄黒い霧が晴れてきていた。
「ほら、デネボラが消えるぞ」
「『消える』って、デネボラは大丈夫なの?」
「『裏』へ帰るだけだ。あるべき場所へやがて帰る、だから問題はない」
 大きな魔物は自分の変化に気付いたのか、静かに、じっとしている。あ、小さな欠伸をした。
「そっか」
「ああ」
 光と、薄らぐ魔物と、多分エクソシスト。
 ゆっくりと流れる時間の中で、あたしは立っていた。

「それじゃあ、俺も帰るか」
 ついに魔物も光も静かに消えて、高橋が大きく伸びをした。
「帰るの?」
「そろそろ眠い。本部に帰って報告もしなくてはいけない、……そうだ、そういえば」
 伸びを終えた高橋があたしを見つめる。相変わらずの無表情。でも少し柔らかく見えるのは、気のせいだろうか。
「名前を聞いていなかった」
「……のばらだよ。原のばら」
「そうか」
 口の中であたしの名前を一度唱えてから、高橋はこくりと頷いた。
「協力に感謝する。ありがとう」
「う、うん?」
 ……あたし、結局のところ高橋に巻き込まれて騒いでいただけのような、……まあいいか。……いいよね?
「こちらこそ、……うん、ありがとう」
「ああ。またな」
「じゃあね」
 高橋は、じじじ、と揺れる街灯の下を歩いて、そして暗がりに溶けた。
 ああ、あたしも早く帰ろう。腕時計を見れば、本当ならとっくに家に着いているような時間だ。お母さんがきっとうるさい。帰って、そして早く寝よう。


 次の日の朝。
「……なんで」
 あたしは道の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。
 年始三日間の巫女バイトも終わり、陸上部の練習も今日はお休み、そんな平和な一日の午前十時。あたしは年賀状を投函するために、ポストへ向かおうとしていた。そんな穏やかで平和な一月四日を過ごそうとしようとしていた、のに。
 どうして白昼堂々、金髪碧眼でマントを着た、ファンタジーな見た目の人間が目の前に立っているのか。
 しかも、どうしてあたしを見て、不思議そうな顔をしているのだろうか。その表情をしたいのはあたしの方だ。
「どうした原のばら、道の真ん中で立ちつくして」
 その質問をしたいのもあたしの方だ!
 その他諸々の暴言やら何やらを抑えて、あたしはなんとかその疑問を絞り出す。
「なんで、いるの、高橋」
「昨日、別れ際に『またな』と言っただろう。予告済みだ、問題はない」
 屁理屈かよ! 確かに言った気もするけど、次の日会うなんて誰も考えないだろ!! しかも「どうしてここにいるか」の説明に全くなっていない!
「だから、どうしてここに」
「いや、昨日心配されたお礼をまだ返していないということを、思い出したんだ」
「え」
 自分でもすっかり忘れていたことを言われ、少しうろたえる。
「そ、そんなのどうでもいいって……」
「昨日の夜から改めて考えた。電卓は複数個いらないということだったが、ならば一体、どのようなものだったら複数個渡しても構わないだろうかと。そして結論が出たのだが、鍋でどうだろうか」
「中学生に鍋を複数個渡してどうしたいんだよお前は!」
 まず、複数個渡すっていう前提をなくすべきだろ! どこから出てきたんだその前提!
「そうか……」
 首元を掻いて俯く高橋は、心なしかしょんぼりとして見えた。
 えっ、あたしが悪いの?
 僅かに罪悪感が首をもたげる。けれどあたしが何かを言う前に、「あ、そうだ」と高橋が顔を上げた。
「忘れていた。もう一つ言うことがあったんだ」
「え?」
「頼みがある。実はまた、何と言うか、その、魔物が、逃げた」
 ……あたしが悪いどうこうじゃない! 高橋の駄目さが異次元だった!!
「どんだけ逃がしてんだテメェ――!!」
「切り捨てると十匹」
「切り捨ててた後の数字で既に多いから! 切り捨てなかったら何匹なの!?」
「十九匹」
「ふざけんなぁぁぁぁぁっ!!」
 四捨五入を最大限に活かしてんじゃねえよ!!
 叫びながら、こいつをどうしてやろうかと頭の中がパニックだ。高橋は高橋で、あたしを見ながら小さく首を傾げ、
「いらいらしているのか? 牛乳を飲め」
 と、さらに油を注いでくれる。
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