第一章 あたしと魔物とエクソシスト−2
「……はい?」
 浅い呼吸を繰り返すこと十数回。あたしはやっと、沈黙を破ることに成功した。
 今、一体、何が起きたの?
 あたしの目の前には、さっきまではいなかったはずの一人の人間がいる。……このシルエットは多分人間だ。この人の口が動くと同時に日本語も聞こえたし。
 あたしより、随分と背が高い。頼りない街灯の光を背にして浮かび上がるその人は、絵に描いたような金髪碧眼。外国人の、男性だ。金属製の煌びやかな飾りのついた真っ黒な長いマントを身に纏っている。あまりに黒くて、足元はこの暗闇に溶け込みかけている。
 彼は、今、あたしの目の前に「降りてきた」。降りてくる最後の瞬間しか見られなかったけれど、間違いなく彼は上からやってきた。
 上から、……って、どこから?
 ここは昔ながらの住宅街。周りにあるのはせいぜい二階建ての家で、たとえそこからジャンプしたとしても「降りてきた」とは思わないだろう。でもそれよりも高い位置にあるのは、冬の澄みきった空だけ。
 そうすると残る可能性は、目の前のマント着用の金髪碧眼男性は空から降ってきた、ということで。
「……ふ……」
 奇妙に甲高く、裏返った震え声が、あたしの半笑いの口から零れる。
「ふ?」
 そしてそんなあたしの声を聞いて、彼が首を傾げる。
 それが引き金だった。
「不審者!」
 そうだこれは不審者だ!! これが不審者でなくて、何が不審者か!
 怖い怖い怖い、世の中怖い!
「不審者ッ、変態、宇宙人ーッ!! 誰かっ、誰か、――っ!?」
 叫び始めたら止まらない、全力で叫ぶあたしの声は、……止められた。
 マントを翻し、流れるような動作で、彼があたしの口を塞いだ。はっとして動こうとしたけれど、その前に彼はあたしの後ろへと回り込んでいた。もう片方の手で肩を抱えられる。
「静かに」
 落ち着いた低い声で、彼がささやく。
 そんなことを言われても、この状況で静かに出来るはずがない。あたしは口に当てられた手を掴んで、腕に力を込めて引き剥がそうとした。でもこの、空から降ってきた謎の人間、こいつの力がすごく強い! しかも残念なことに、陸上部は特別に腕の筋肉が発達してるわけじゃない。くそ、バドミントン部かテニス部にしておけばよかった!
 仕方がなくて叫ぼうとするけれど、塞がれた口じゃまともに言葉が出せない。ああ、間違いなく腹話術の心得が必要な時代が到来している。現代は危険がいっぱいだ……!
 せめてもの抵抗で、あたしは顔を無理矢理上に向けて、精一杯の敵意を込めて奴を睨んだ。あたしを見下ろし、奴は――首をかしげている。
「どうした? よく分からないが、ひとまず落ち着け」
 二十センチくらいを隔てて、見上げるあたしと見下ろす奴の目が合う。
 透き通った緑色の二つの目が、まっすぐに、あたしを見ている。
 奴の口が開く。
「俺は怪しい者じゃない。本名は事情により言えないが、まあ、高橋とでも呼んでおいてくれ」
 そして真顔のままそう言った。
 ……。
 ……え、ええー、高橋ですか。すっごくミスマッチ。
 思わず、睨むことも忘れて脱力してしまっていた。それに気付いて、慌てて睨み直そうとしたけれど、彼――高橋は何らあたしの反応を気にする様子はなかった。表情も、真顔のまま変わらない。
 全く揺れない緑色の目であたしを見ながら、高橋が続ける。
「これからお前に話すことは、簡単には信じられないことだろう。けれど、信じてほしい。そう、夢というものを十代の若者は信じることを拒むが、いつか理解してほしいように」
 高橋は真顔で、多分、真剣だ。
 一度短く息を吸い、止めて、高橋は厳かに切り出す。
「俺は、魔物退治のために日本に来た――エクソシストだ」
 そして高橋は、早速、簡単に信じられないことを言い出した。
「……エクソ……シスト?」
 高橋はこくりと頷いた。
「そうだ。正しくは自称エクソシストなのだが」
「え、自称……?」
 さらに不思議な言葉が聞こえた気がして、聞き返す。
 けれどあたしの視線を気にすることなく、高橋はまた頷いた。すらりとした長い人差し指を立ててみせる。
「ああ。本来エクソシストというのは、カトリック教会における位階の一つであり、悪魔祓いの儀式を行う人間を指す」
 続いて中指が立った。
「ところで俺は、先程も言った通り、魔物退治をしている人間だ」
「ちょ、ちょっと待って!」
 次々に、日常では聞き慣れない言葉を繰り出してくる高橋を、なんとか割り込んで止める。
「あの、さっきは聞きそびれたんだけど、……いやいや、魔物って」
「お前は先程、気付かなかったか?」
 すると、真剣な顔のまま、僅かに高橋が顔を近付けた。
「俺が降りてくる直前、異常なほど、冷たい風が吹いただろう」
 ……確かに……、「冬の冷たい風」じゃ済まない、凍らされるような風があのとき吹いた。思い出しただけでぞくりと背筋が粟立つ。
「あれは魔物の残り風だ。この世界には、ふとした拍子で繋がる『裏の世界』が存在する。日本に古くから伝わる言い方をするならば、現世に対して『常世』。そこに暮らす魑魅魍魎を、『魔物』というんだ。英語で言うならデーモン。ロシア語は知らない」
「え、知らないの!?」
 なんだかすごい話になってきたぞ、と思っていたところでのこの発言に、あたしは思わずつっこみを入れていた。
「無茶振りをするな。エクソシストだからと言って何でも出来るわけではない」
「あたしが振ったんじゃないよ、自分から言ったんだよ!!」
 しかもなんだか、あたしのせいのようになってるし! 思わず口調が激しくなるけど、そんなものはどこ吹く風、高橋は全く表情を変えずに「話を戻そう」と言いやがった。
「繰り返しになるが、俺はそのような『魔物』を退治している。時折、『裏』からこちらへと魔物が迷い込んでくることがあるのだが、それらを『裏』へと送り返すことが主な仕事だ。というのも、『裏』に棲む存在であるはずの魔物がこちらの世界へ多く迷い込むと、こちらと『裏』とのバランスが崩れてしまう。その状態は、どちらの世界にとってもよいものではない。つまり俺たちは、大げさに言うなら、魔物退治を通して世界を救っているとも言える。……さて、話を戻そう。自称エクソシストとは何か、という話だったな。俺たちは『魔物退治を行う』仕事をしている。それを分かりやすく表すために『エクソシスト』と名乗っているわけだ。以上が、俺が自称エクソシストであることの説明だ」
「はあ……」
 説明が終わったらしい。ひとまずあたしは頷いた、けれど。
「納得してもらえたか?」
 続く言葉に、二割ほど頷きかけて、でもそのまま頭を横へひねってしまう。
 確かにあたしは不気味な冷たい風を感じたし、こいつが空から降ってくるところも見た。けれどあまりにも現実味がなさすぎて、……エクソシストに魔物……うーん?
 納得していいのかよく分からないまま、あたしは尋ねる。
「ええと、それで、その自称エクソシストさんがどうしてあたしを捕まえてとうとうと説明してるの?」
「ああ」
 思い出したかのように、高橋が言う。一度言葉を切って、改めて。
「単刀直入に言おう。お前の力を借りたい」
「……はぁ!?」
 あたしは高橋から離れ、自分の服装を確認した。
 白いカッターシャツとブレザーにチェックのスカート、ごく普通の中学校の制服。紺のダッフルコート。持ち物はスクールバッグ。
 目の前の、マント着用で金髪碧眼の自称エクソシストとは全然違う。あたしはファンタジーな人間じゃないぞ!
「どうしてあたしに!?」
「ついさっき、お前は神社で神の使いとして務めていただろう」
 神の使いって何それ、……いや、もしかして。
「まさかとは思うけど、巫女のこと……?」
「ああ、それだ」
 ば、バイトなんですけど。おみくじ渡してただけなんですけど……。
「今回のミッションは元々俺一人では難しいものであり、日本で仲間を探すつもりだった。日本の宗教施設といえば寺や神社。お前がぴったりだ」
「いや、無理……」
「それに、お前が先程、神事に使われる木片に『世界平和』と書いていたのを俺は見た。お前の志も、俺たちの『世界を救う』という最終的な目的と合致している」
「それはちょっとした間違い……」
「心配するな。誰でも未知のことに対しては不安を持つものだ。しかし、いざやってみれば、思っていたほど難しいことではない。必要なのは少しの勇気だ」
 正論なんだけど、だからバイトだし、心願成就の間違いなんだってば!
 すると、目の前の高橋が突如黙り込み、あたしの目をじっと見た。
 何かを考えている。あ、諦めてくれた……?
「……その顔は、興味を持ち始めたようだな」
 こいつの目は節穴どころか落とし穴か!
「無理無理無理、無理だって、あたし魔物なんて見たことないもん!」
「自分をそう卑下する必要はない。少々潔癖な世の中だからな、神の使いと言えど魔物を見たことがない者は珍しくない。しかし、きっかけさえあれば見て、感じられるようになる。先程魔物の残り風を感じられたのならば素質は十分だ。エクソシストである俺の傍にいれば、影響を受けて魔物を感じやすくなるから、これをきっかけとして神の使いとして成長すればいいだけだろう」
 いいことを言った、というふうに高橋が深く頷く。
「よし、今回のミッションについて説明しよう」
 しかもそのまま説明を始めやがった。相変わらず表情を変えない高橋なんだけど、少し嬉しそうに見えた。あたしは全然嬉しくない。
 けれど、だからと言って高橋を無視して立ち去ることもあたしにはできなかった。「魔物の残り風」を感じたのは事実だったから。高橋の言う通りなら、彼の影響を受けて、あたしにも魔物が見えるようになっているらしい。そんな状態で一人で帰って、もし魔物に遭遇なんてしてしまったら、怖いどころの騒ぎじゃない。結局あたしは高橋の話を聞くしかなかった。
「今回捕獲するのは、『デネボラ』と呼ばれる魔物だ。こちらの世界のもので例えるなら、……そうだな、少し大きくて黒い獅子を想像してもらえばいい」
「獅子……ライオンなの?」
「ああ」
 魑魅魍魎なんて聞いて、その語感から嫌な想像をしていたけれど、少なくとも見た目が気持ち悪いものではないらしい。
「元々、俺たちエクソシストは、ある場所で捕獲したデネボラを本部へ運んでいたんだ。その途中、……まぁ……何というか、その、デネボラが……逃げた……というか」
「ふーん、……って」
 少しの違和感を覚えた。今まで、表情は真顔のままだけどあれだけ淡々と、そして途切れることなく語っていた高橋が、あからさまに言葉を濁している。
 あたしはなんとなく声のトーンを落として尋ねてみた。
「あのさ、高橋。もしかして、もしかしてなんだけど、デネボラを逃がしちゃったのって、……あんたなの?」
「ああ、そうだ。俺たちというか、俺がやってしまった」
 さっきはあれだけ濁していたのに、今度はあっさり頷きやがった。
「ちょっ、はぁ!? お前、何逃がしてんのよ!! そのせいであたしまで巻き込んでんじゃん!!」
「いや、悪かった」
「そんなあっさり言うなっ、可愛げもないっ!!」
「可愛げがあったらいいのか? ……ごめんだっぴょん」
「その真面目顔で言うな――!!」
 気付けばあたしは肩で息をしていた。目の前の高橋は涼しい顔で、それがものすごい敗北感をあたしにもたらしていた。
 そのときだった。
 冷たい空気が上から降ってきて、あたしのすぐ傍を駆け抜けた。
「ひゃっ……!?」
 冷たい。その冷たさは、さっきと同じく、冬のせいじゃない。一拍遅れて、凍らされるような震えがつま先から這い上がる。
 高橋の言葉を思い出す。「あれは魔物の残り風だ」。ということは。
「ちょっと高橋っ、今」
「デネボラが近い」
 あたしは辺りを見回した。変わったところは、何も見つからない。じじじ、と切れかけた電灯がまた点る。
「何もいないじゃない……」
「姿を消している」
 高橋の頬を、一筋の汗が流れおちる。相変わらずの無表情なのに、緊張がはっきりと見て取れた。それがあたしにも伝染する。
「どっ、どっ、どうするのよ高橋……」
「静かに」
 ぞわりと皮膚に鳥肌が立つ。
「来たぞ!」
 高橋は右手を前に突き出す。
 小さく、低い声で何かを呟いたのを、あたしは聞いた。
 暗闇が僅かに揺らぐ。その変化した空間からにじみ出るように。
 「それ」が、現れた。

「……!!」

 あたしの叫びは、声にならなかった。
 だって。だって。
「でっ、でかすぎだろ――ッ!!」

 おお、今度は声になった。……じゃなくて!
 確かに目の前には黒いライオンが現れた。突然現れたこれが、現実の――この世界のものじゃない、つまり「魔物」なんだってことはすぐに理解できた。
 けれど、魔物をこの目で見たという衝撃なんて吹き飛ばすくらいに。このライオン、「少し大きくて」と言った高橋の説明と違って。
「ゴラァ高橋ィ!! 何これェェェッ、めちゃくちゃでかいだろ!!」
「え、俺は別にそれほど大きくないが。百七十八センチだから、あと五センチは身長が欲しかった」
「お前のことなんて言ってねェェェッ!! デネボラじゃぁぁぁぁ!!」
「まぁ、多少大きいかな」
「多少じゃねェェ、相当でかい! 説明と全然違うって!!」
「日本語は難しいな」
「そういうコミュニケーションミスのレベルを超えてるよ! 何これ、ビル? ビル!?」
 道をふさぐようにして立ちはだかるデネボラさんは、縦にも横にも非常にでっかくいらっしゃる。周りの二階建ての家なんて目じゃない。大迫力の図体を持つデネボラが、ぎらぎらと輝く真っ赤な目であたしたちを見下ろしている。
 高橋は「その辺りは置いておいて」と言い、――あたしの背を押した。
「ほら、お前の出番だ、神の使い」
「バイトだしッ!」
「バイト? ……そうか、しかしバイトだろうとなんだろうと、神の使いには変わりないだろう」
「変わりあるし! おみくじ渡してただけの一般人だから、あたしは!!」
 騒いでいるうちに、デネボラが一歩、一歩、あたしたちの方に近付いてくる。大きな足が持ち上げられ、地面に卸される度、この世界の存在じゃないからか音は全くしないのだけれど、代わりに息苦しいくらいのプレッシャーが胸を襲う。たてがみがゆったりとなびき、開いた口には黒い牙が見える。さすがにここまではまだ届かないはずの生温かい息を、けれどあたしは感じていた。
「いっ、嫌ぁぁぁぁ! あたし一般人! 超一般人だから!!」
「超一般人? 『超』とは『すごい』という意味だろう? すごい一般人、つまりはすごい能力を持っているんだろ」
「違うッ、『超』は『一般』までしか修飾してないの――!」
 あああ、この間にもデネボラが、デネボラが赤い目を向けてこっちに――!!
「仕方がないな」
 自分の喚き声の合間から、腹が立つくらい冷静な声が聞こえた。ふわり、とマントを風になびかせ、高橋が一歩前に進み出た。
「ひとまず、俺だけでもやってみる」
 高橋はまた、すっと右手を前に突き出した。
「……!!」
 さっきと違うのは、高橋の手に光が宿り始めたということ。
 広げられた右手の手の平に包まれるような位置で、ピンポン玉くらいの大きさの、真っ白な光の球が浮かんでいる。
「た、高橋、それ何っ……!?」
「言っただろう、俺はエクソシストだと」
 真っ直ぐにデネボラを見つめたまま、高橋が答える。
「境界に干渉し、魔物を本来あるべきところに返す光だ」
 うっ、うわっ、高橋のくせにちょっと格好いい。
 光は急速に膨らんでいく。大きな手からはみ出るくらいまで一気に膨らみ、そこで一度止まった。止められた光が、堪え切れないかのように震え出す。揺れが、せき止められた光が、限界に近付き、そして――。
「いくぞ!」
 そして高橋は、光を、放った。

 放ったまではよかった。
「……」
「……」
「……遅っ」
 高橋が放った光は、クラスで飼っている亀の方がよっぽどましなんじゃないかっていうくらいのスピードで、ひょろひょろと魔物に近付いていく。その間あたしと高橋だけでなくデネボラまでもがじっと見守っていたんだけど、ついに光がデネボラに触れそうになったとき、残念ながらあっさりと跳ね返された。しかもデネボラは、前足をほんの少し動かしただけだった。
「……ミスった」
「ミスりすぎだろッ!!」
「ごめんだっぴょん」
「だから可愛くないッ! むしろ気持ち悪い!!」
「褒め言葉か?」
「けなしてんだよ――!!」
 どうしてあたしは、わけの分からない魔物退治に巻き込まれた挙句、こんなに必死になって高橋に向かって叫んでいるんだろう。叫んでいる途中、息継ぎをしたとき、ふとそんなことを考えてすごく空しい気持ちになった。
 しばらく自分の右手を握ったり開いたりしながら首を傾げていた高橋は、やがてあたしの方へ顔を向けた。
「……まあ、安心しろ」
「え?」
「残念ながら失敗に終わったが、しかし俺が他の対策を何も考えていないと思うのか?」
 この瞬間、今のところまったく変化を見せていない高橋の顔が、突然頼もしく見えた。
「まだ、策はあるの……?」
「ああ」
 高橋は頷いて、指を三本立てた。しかも三つもあるんだ! なんだかんだ言ってすごいじゃない、
「一つ、そこの十字路をまっすぐに逃げる。二つ、そこの十字路を右に曲がって逃げる。三つ、そこの十字路を左に曲がって逃げる」
「逃げるしかねえじゃねえかぁぁぁぁぁっ!!」
「あ、まだ選択肢があった。次のT字路で曲がって逃げる」
「何の解決にもなってねえよバカ――!!」
 叫びながら、でも残念ながら選択肢はその「逃げる」しかなくて、高橋とあたしは同時に身を翻して駆け出した。